あまりに貴重な資料なのでスポーツ報知さんより引用させていただきます。

それにしてもスポーツ報知さんのこうした特集を時々作ってくれるのはうれしいです。

ありがたいです。

<blockquote>
<p>出典:<cite>http://www.hochi.co.jp/sports/feature/TO001659/20170214-OHT1T50095.html</cite></p>

<p>【藤波辰爾45周年ヒストリー】(1)入門するため別府温泉でプロレスラー探し
2017年2月14日15時0分 スポーツ報知

プロレス人生45年を振り返る藤波辰爾

プロレス界のレジェンド、藤波辰爾(63)がレスラー生活45周年を迎えた。アントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指し1971年にデビューした炎の飛龍。日本プロレスへの入門、猪木の日プロ除名から新日本プロレス旗揚げ、ニューヨークでのベルト奪取、長州力との名勝負数え歌、猪木への思い…。4月に45周年記念ツアーを行う藤波が今だから明かす秘話を連載します。

藤波辰爾は、1953年12月28日、大分県国東郡(現国東市)に生まれた。幼いころから体は小さく性格もおとなしかった。小学生までは将来への夢も憧れの仕事もなかったという。

そんな少年が目覚めたのが中学入学後だった。テレビのブラウン管に映し出されたプロレスに心をわしづかみにされた。当時の日本プロレスは、63年12月に力道山が急逝したが、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、吉村道明、大木金太郎を中心に活況を呈していた。

「子供のころは、引っ込み思案で友達と取っ組み合いすらしたことなかったし、もちろん、ケンカなんて経験もなかった。でも、テレビでプロレスを見た時に“これしかない!”って引き付けられた。今、振り返ると、相手を倒す殴る蹴るという行為は、自分の性格とは正反対だから、ある部分で心の中で眠っていた感情がその反動で爆発したのかもしれない。とにかく、中学を卒業したらレスラーになると決意しました」。

憧れは、猪木だった。シャープな動き、感情むき出しのファイトスタイル。スポットライトを浴びて躍動する姿は、まぶしく「猪木さんみたいになりたい」と心に決めた。中学時代は陸上部で足腰を鍛えていたが、加えてレスラーになるためスクワット、腕立て伏せ、腹筋など自宅で練習を始めた。居間では受け身の練習も繰り返し、床が抜けたこともあった。

「中学を出たらレスラーになろうと決めていたので、高校へ行く選択肢はなかった。ただ、レスラーになる方法が分からなかったしコネもつてもなかったので、何とかプロレスラーになるきっかけがつかめないかと考え、自動車整備士になるため別府の職業訓練校に通うことにしました。というのは、自分が住んでいた国東には、プロレスの興行が来ない。別府に出れば、興行も来るし何かきっかけがつかめるかもしれないと考えて、レスラーになる機会をうかがっていた」。

プロレスラーになるために職業訓練校へ入学。この学校では、実習として板金工場への勤務も義務づけられていた。仕事をしているので学校から月給として2万円が支給されたという。時は1969年。15歳の少年にとって「学校に通いながらお金がもらえたから、当時の自分にとっては、大金でしたよ。そこで自動車の溶接の免許も取れるし、いいものでしたよ」。それでも日々、募るのはレスラーへの思いだった。そんな夢を4歳上の兄・栄二がくんでくれた。栄二は、藤波以上のプロレスファンだった。中学時代には、兄弟2人で大分市内に日本プロレスの試合があると観戦に出掛けていた。

「誰よりも自分がレスラーになりたいっていう気持ちを理解してくれていたのが兄だったんです。その時は両親にも言えなかったから兄だけに自分の本心を打ち明けていた。中学卒業してからも、気持ちは変わらない自分の姿を見て“そんなにレスラーになりたいのか”っていうことで、私より積極的に率先していろいろ探してくれたんです。そんな時、たまたま、大分の別府温泉に日本プロレスのレスラーがケガで治療に来ているという情報を得て、兄と2人で選手が泊まっている旅館を探しに別府に行ったんです。何の情報もありませんから、2人で何軒も何軒も回って“プロレスラーの人、泊まってませんか?”って聞いて回ったんです。そしたら、ある旅館で“あの旅館にプロレスの人がいるよ”って教えてもらって、行ったらついにレスラーに会えたんですよ」。

初めて対面するプロレスラーは、同じ大分県出身の北沢幹之だった。(敬称略)
【藤波辰爾45周年ヒストリー】(2)日本プロレス入門 そして家族との別れ
2017年2月15日15時0分 スポーツ報知

レスラー人生を振り返った藤波辰爾

1970年春、16歳の藤波辰爾は、大分・別府温泉でプロレスラーの北沢幹之と出会った。レスラーに会って入門を直談判しようと兄・栄二と探し回り、ようやくたどり着いたのが北沢だった。

「北沢さんは、レスラーとしては大きな方じゃなかったんだけど、その時はすごくでかく見えてね。顔を見たら鼻が曲がっているし、胸板なんか分厚くて迫力を感じた。試合は見たことあるけど、何しろ、こんな形でレスラーと会うのはこの時が初めてだったから、自分の気持ちは心臓が飛び出るような感じだった」

北沢は大分県東国東郡(現・国東市)出身で1961年に日本プロレスに入門。途中、アントニオ猪木が旗揚げした東京プロレスへ移籍したが団体崩壊と共に日本プロレスへ復帰した中堅レスラーだった。生のレスラーのオーラに圧倒された藤波少年。内気な性格も重なって自分の思いを伝える言葉が出てこなかったという。

「そのころの自分は、前に出られない性格でしかも、レスラーを目の前にして話すこともできなかった。代わりに兄貴が“弟がプロレスが好きで、レスラーになりたいんです”って必死でお願いしてくれてね。その横で自分は、頭を下げるのが精いっぱいだった」

そんな兄弟の情熱が伝わったのだろう。北沢は「気持ちはよく分かりました。この後に日本プロレス一行が巡業で下関に入ってくるんで私もそこから合流するんで見に来ますか」。いきなりの直談判で巡業への同行の誘い。飛び上がるほどうれしかったという。

「今、思えば北沢さんに入門を許可する権限はないし、まだ、正式に入門できた訳じゃないんだけど、自分としては、これで“入れる。レスラーになれる”って思った。二つ返事で“お願いします”って答えた」

別府で兄弟での直談判から数週間後。北沢に言われた通り父親の晋、兄・栄二と共にふるさとの大分・国東を離れ、日本プロレスの試合地となる山口・下関へ向かった。試合を観戦した後、北沢に日本プロレス一行が宿泊している旅館に連れて行かれた。そこで当時の現場責任者の吉村道明と会った。吉村は、力道山の全盛時代から「火の玉小僧」の異名を持つ人気レスラーで力道山が亡くなった後は幹部レスラーとして日本プロレスを支えていた。

「北沢さんに連れられて吉村さんのところにあいさつに行った。その後、自分たちはすぐに部屋を出たんですが、後で、北沢さんが一生懸命に頼んでくれたようです」

部屋の外で待っていると北沢が「下関の後に九州巡業があるから一緒に付いてきなさい」と告げた。見習いとして巡業への帯同が認められたのだ。

あこがれのプロレス界へ入る第一歩が決まった。夢の扉が開いたことは、大きな別れを意味していた。両親、兄弟との別れだった。

「旅館でオヤジと兄貴と別れたんだけど、あの時のオヤジの後ろ姿は今でも鮮明に覚えている。何とも言えない感じの背中が今でも目に浮かぶ。すごい世界に息子を入れてしまったという何とも言えない思いだったんだろうと思う。本当は連れて帰りたかったんじゃないかなぁと思う。当時、プロレス界に入るということが五体満足で帰って来られない、ある部分では、死をも覚悟しなきゃいけないという感じで捉えられていましたから」

遠くなる父の背中。ただ、感傷的な思いは一瞬だった。翌日からの九州巡業で「えらい世界に入ってしまった」と思い知らされた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(3)永源遥さんのアパートから始まった東京暮らし
2017年2月16日15時0分 スポーツ報知

ドラゴン・スリーパーで武藤敬司を締め上げる藤波辰爾(1993年8月6日、新日本プロレスG1クライマックス・トーナメント準決勝)

1970年。16歳の藤波辰爾は、下関で家族と別れ日本プロレスの九州巡業へ参加した。

日本プロレスの巡業は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の両エースを除く選手は同じバスに乗って移動していた。藤波は、学生服姿で北沢の隣に座り選手と同じバスに乗った。当時の身長と体重は、176センチ、62キロ。やせた体の16歳は、大男たちに囲まれながら「心細くて、えらい世界に来てしまった」と途方に暮れたという。

生活から練習まですべてを北沢から指導された。試合前の練習も正式に入門が許されていないため、リングは使えず、会場の片隅で一人でスクワット、腕立て伏せなどの基礎トレーニングを繰り返した。

「先輩レスラーが怖いとかそういう感情もなかった。もちろん、ファンの時のように馬場さん、猪木さんの試合を見ても憧れたような気分にはなれない。とにかく、毎日が精いっぱい。生活でも練習でも試合でも自分に近い若手がどんな動きするのか。どんな練習するのか必死で、見ていた」

巡業に参加する前の下関では、憧れの猪木とも初めて対面した。当時、北沢は猪木の付け人を務めていた。猪木に北沢は「私と同じ大分出身で藤波といいます。レスラーになりたいと言ってます。どうぞよろしくお願いします」と紹介された。猪木からはたった一言「頑張れよ」と声をかけられたという。

「目の前に猪木さんがいて、もう何も言えなかった。すごくデカクてね。あの当時の猪木さんは27歳で結婚前で血気盛んというか迫力がすごかった」

猪木との対面、無我夢中で動いた九州巡業が終わり上京した。大阪まで在来線で行き、そこから初めて新幹線に乗って東京に向かった。当時の日本プロレスは渋谷にあった試合会場と道場、事務所が入った「リキパレス」が閉鎖され、代官山に新社屋と選手寮を建設中だった。そのため、生活する場所がなかった。

「住むところがなかったから、北沢さんが仲の良かった永源遥さんに頼むと“じゃぁ面倒見てやるよ”って受け入れてくれて、永源さんのアパートにお世話になることになった」。

永源は、大相撲を廃業し1966年に東京プロレスに入団。翌年に同団体が崩壊後は日本プロレスに移籍し当時、中堅レスラーだった。アパートの場所は世田谷区若林。8畳と6畳の2間続きの部屋には、同じようにレスラーを志す若い男たちがいた。

「永源さんは、おおらかな性格だったから、頼まれたら自分と同じような若手をすべて受け入れていた。あの時、同居していたのは小沢(後のキラー・カン)、桜田(後のケンドー・ナガサキ)とか5人ぐらいたかなぁ。永源さんは、6畳の部屋を使って我々は8畳の部屋に5人でいた。寝る時は、みんな布団を重なるようにして寝ていた。自分は体が小さかったから床の間みたいなところに追いやられて寝ていた」。

永源遥の部屋から始まった東京での生活。同時に本当の意味での新たな門出もあった。北沢に連れられ、外苑前にあった国道246号線沿いにあった日本プロレスの仮事務所で芳の里社長にあいさつし入門の許可が出たのだ。1970年の6月だった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(4)入門から1年かかったデビュー戦
2017年2月17日15時0分 スポーツ報知
ファンの声援に応える藤波。デビューまでの道のりは長かった

ついに日本プロレスへの入門を許された藤波辰爾。世田谷区若林に住む先輩レスラーの永源遥のアパートから道場へ通い、本格的な練習がスタートした。

「練習はすべてが恐怖の連続だった。それまで人と取っ組み合いすらしたことなかったから、スパーリングもままならず、自分には相手が用意されなかった。ひたすらスクワット、腕立て伏せを繰り返した。バーベルも使い方を教えられながらやっていた」

スクワットのノルマは500回。時には1000回、2000回を強いられた。

「中学で陸上をやっていたから足腰には自信があったけど、まったく使う筋肉が違うから、練習が終わった後は、筋肉痛で歩き方がロボットみたいになった」

合同練習後には、入門を直訴した北沢幹之から特別に指導を受けた。

「北沢さんから“リングに上がれ”って言われて、投げてもらって、受け身の取り方を教えてもらった。今は格闘技を経験してレスラーになるのが多いけど、自分は、まったく知らないから、そんな初歩的なところから始まった」。

年が明けた1971年。春には日本プロレスは代官山に地下1階、地上3階の道場とオフィスを兼ね備えた自社ビルを完成。道を隔てた所に5階建ての選手寮もが建設され、住まいも永源のアパートから寮へ移った。春が近づくと待望のデビュー戦へ兆しも出てきた。当時の日本プロレスは、中堅からメインイベントのマッチメイクを取締役兼レスラーだった吉村道明が担当。若手らが出場する前座3試合は、中堅レスラーで「若手頭」と呼ばれたミツ平井が組んでいた。

「巡業中に平井さんから“リングシューズ持っているのか”とかリングに上がって“ちょっと受け身取ってみろ”って言われた。そんな様子を見ていた北沢さんから“もうすぐデビューが近いぞ”って耳打ちされた」

その日は突然、やってきた。1971年5月9日、岐阜市民センター。会場に入るとミツ平井から「今日、試合だ」といきなり告げられた。中学時代から憧れていたプロレスラー。入門から約1年を経た待望のデビュー戦。リングに立った17歳の藤波は、思いも寄らない体験をした。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(5)金縛りにあったデビュー戦 初月給は2万7000円・・・
2017年2月18日15時0分 スポーツ報知

デビューした当時の写真を紹介する藤波

1971年5月9日、岐阜市民センター。17歳の藤波辰爾は、デビュー戦のリングに立った。対戦相手は、入門前から公私ともに指導を受けてきた北沢幹之だった。待望のデビューだったがリングに上がると「体が金縛りにあった」という。

「初めてあの空間に立った時、体が動かなくなってしまった。お客さんの顔も見えない。思っていたことは、何もできなかった。今でもあの感覚は思い出す。ある部分、自分では、予想していなかった感覚だった」

リング上で向かい合った北沢は、普段以上に「バカでかく見えた」という。金縛りにあった藤波は、試合中に何をやったのかほとんど「覚えていない」と振り返る。

「北沢さんに殴られて体に手形が付く。すりむいたりしたんだけど、痛さはまったく感じなかった。それぐらい何の感覚もなかった」

当時、練習でのスパーリングも先輩に上に乗っかられて決められっぱなし。「いつも天井ばかり見ていた。ボディスラムぐらいは教えられていたけど、技なんか何もない。どうやったら倒せるのかを繰り返すだけだった」。ただ、動かない体でもドロップキックを繰り出していた。後に華麗な空中殺法でジュニアヘビー旋風を巻き起こしたセンスの芽生えでもあった。

金縛りのデビュー戦。結果は、完敗だった。試合後、北沢からは「もっと来なきゃダメだ」と厳しく叱られた。

「ただ、やっとデビューできたから、やっぱり嬉しかった。普通なら入門から7か月ぐらいでデビューできるんだけど、自分は、それよりも遅くて1年ぐらいかかったから、喜びもひとしおだった。翌日、朝早く新聞を買いに行って試合結果のところに名前を見て“俺もレスラーになったんだ”って嬉しかったね」。

月給ももらった。初めての給料は2万7000円だった。希望にあふれたデビューだったが、リング外では嵐が渦巻き始めていた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(6)17歳の藤波が見た 猪木、日本プロレス除名の真相
2017年2月19日15時0分 スポーツ報知

猪木除名の真相を語る藤波

1971年5月9日。ついにデビューした17歳の藤波辰爾。当時の日本プロレスは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の両エース態勢で栄華を誇っていた。当時、藤波は、猪木の付け人を務めていた。

「付け人だった自分から見ても、猪木さんと馬場さんは、すごく仲が良かったんですよ。馬場さんは猪木さんを本名の“寛ちゃん”って呼んで、猪木さんも常に年上の馬場さんには一目置いて立てていた。巡業でも試合が終わると2人は一緒に旅館の風呂に入っていた。馬場さんの付け人の佐藤(昭雄)と2人で自分は猪木さんの、佐藤は馬場さんの背中を流していたけど、風呂場で2人は仲良く話をしていた」。

実は、このころ、水面下で馬場と猪木は会社幹部の不正経理の疑惑を抱き、改革へ動き始めていた。若手選手の中でも一番下の藤波だったが「毎月のように動きがあった」と振り返る。「例えば巡業中に馬場さんと猪木さんが中心となって若手選手を何回か集めて“会社を変える必要がある”ってことを訴えていた」。改革へ選手が一致団結しようとまさにタッグを組んでいた馬場と猪木だったが、秋ぐらいから2人にすきま風が吹き始めたという。

「ある時から2人が風呂に入る時間をズラすようになった。巡業でも貸し切りの旅館に泊まった時に、2つ風呂があると猪木さんが入っていると馬場さんは別の風呂に入るようになった。そのうち、自分も馬場さんの付け人の佐藤との関係もおかしくなって自分たちも話をしなくなってしまった」

ある日、猪木が選手の輪の中から外された。

「選手だけの話し合いで突如として猪木さんだけはじき出された。新聞でも“猪木、会社乗っ取り”って報じられるし、地方巡業にも猪木さんだけ外されたこともあった。自分は“なんで猪木さんだけが外されるのか”っていう思いだった」。

一説では、上田馬之助が選手の動きを幹部に内通し、フロント側が馬場と猪木の分断を図ったとされる。いずれにしても結果、馬場と猪木による日本プロレス改革は、猪木が単独で会社乗っ取りを計画したと選手会から糾弾される。異様な状況で迎えた1971年12月7日、札幌中島体育センター。完全に心が離れた馬場と猪木がタッグを組みドリー、テリーのザ・ファンクスと対戦した。

「この時は険悪だった。猪木さんだけホテルが違った。猪木さんのセコンドは自分と山本小鉄さんと木戸修さんの3人だけ。あとは全員が馬場さんを取り囲んで守っていた。というのは、猪木さんが馬場さんに“何か仕掛けるんじゃないか”って警戒していた。不穏な雰囲気で対戦相手のファンクスも異様さを感じていたと思う」

試合は、馬場、猪木組が敗れた。幾多の伝説を残したBI砲にとって最後の試合になった。6日後の12月13日。日本プロレスは猪木の追放を発表した。あれから、45年あまり。真相は何だったのか。

「自分が知る限り猪木さんが会社を乗っ取ろうと計画したことはない。ただ、プロレス界ではいろんな団体が軌道に乗ると、どこかで会社を改善しなくてはならなくなる。そうなると、フロント幹部は居心地が悪くなり、改革しようとする選手を切り崩しにかかってくる。そんな中で上田さんも最初は改革しようと他の選手と行動を共にしていたんだけど、結果、切り崩されたんだと思う。そうした中で最終的に馬場さんも“力道山の遺志を受け継いだ日本プロレスを守らないといけない”という責任もあったし、結局、猪木さんだけが取り残された」。

藤波が見た「猪木除名」の真相だった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(7)夜逃げ同然で日本プロレス退団、新日本プロレス旗揚げへ
2017年2月20日15時0分 スポーツ報知

デビュー当時の写真を披露する藤波

1971年12月13日。アントニオ猪木が「会社乗っ取り」を企てたとして日本プロレスを追放された。除名を発表した記者会見。藤波辰爾は、会見場の一番、後ろで他の選手と並んで幹部が発表する「猪木除名」を聞いた。

複雑な表情で会見を見つめる藤波の姿が翌朝の新聞に載った。「猪木さんがその新聞を見て、自分と木戸(修)さんだけが変な複雑な顔している写真を見て“藤波と木戸を呼ぼう”と決めたようです」。その日に猪木の側近から「日本プロレスを抜けてオレのところに来いよ」と電話が入る。

「実は会見の前日に日本プロレスの幹部だった吉村道明さんから“お前は、猪木の付け人だけどやめなくていいんだぞ”と言われていた。だけど、猪木さんが辞めて“俺も辞めないといけないのかな”と考えていた」。

そして、側近を通じて猪木から誘いが来た。

「猪木さんが自分を呼んだということは、イコール“何かやるな”って感じた。それは新しい団体を作るってことだと思った。猪木さんに付いていけばプロレスはできると思った。だから、まったく迷いはなかったし生活的な不安もなかった」。

猪木へ付いていく決断をした当日。大仕事が待っていた。当時、猪木は日本プロレスの本社と選手寮がある代官山から500メートルほどしか離れていない猿楽町に個人事務所を持っていた。日本プロレスの寮にある猪木と自らの荷物を猪木の事務所に運ぶことを命じられた。

「夜、寝静まる時間を見計らって日本プロレスの寮に忍び込んで荷物を詰め込んだ。2度、やるわけにはいかないから、1度で終わるようにサムソナイトのスーツケースを4つ用意してね。夜逃げってこんなもんなのかと思った。もし、みつかったら袋だたきにあうことは確実。そんな恐怖もあった。スーツケースは猪木さんのガウンだけで1つが満杯になった。あの4つをいっぺんに持って出たんだけど、いまだにスーツケース4つをどうやって持ってたのか覚えていない。今、思い出すとよく持てたなって思う」

外に出ると猪木の側近が用意した車に乗り込み無事に荷物を代官山から猿楽町の猪木事務所に持ち運んだ。

「結局、日本プロレスを出る時に、きちんと礼儀を尽くして辞めることはできなかった」。

夜逃げ同然の日本プロレス退団劇。感傷に浸っている暇はなかった。新日本プロレスの旗揚げへ一気に動き出す。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(8)石拾いから始まった新日本プロレスの道場
2017年2月21日15時0分 スポーツ報知

天龍(左)に延髄斬りを浴びせる藤波

1971年暮れ。日本プロレスを除名になったアントニオ猪木に呼ばれ、夜逃げ同然で退団した藤波辰爾。一方、猪木はすぐに新団体設立へ動いていた。

「猪木さんの自宅は、前は歌手の畠山みどりさんが住んでいた凄い屋敷だったんですが、除名処分になった翌日に自分が行ったらブルドーザーを入れて更地になっていた。目的は道場を建てるためだった。気性が荒い人だから除名となって“だったら、やってやる!”ってスイッチが入ったんでしょう。道場を作るということは新団体の旗揚げを決断したということだから、猪木さんに付いていくことを決めた自分もうれしかった」。

年が明けた1972年1月13日、猪木が新団体「新日本プロレス」を設立。旗揚げ戦は3月6日、東京・大田区体育館に決まった。選手は、猪木を筆頭に藤波と同じように日本プロレスを退団した山本小鉄、木戸修、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人。このうち北沢と柴田はメキシコ遠征中で実際に国内で新団体旗揚げへ動いていたのは小鉄、木戸、藤波の3人だった。

「練習する場所がないから道場ができる前の更地に行って石を拾ったり、鉄骨を建てたり、そんな工務店の手伝いみたいなことをやっていた。石拾いしながら山本小鉄さんと近くの多摩川河川敷でスクワット、腕立て伏せとかやったりね。河原が昼間の道場だった。今、思えば大変だったなぁと感じるけど、その時は“ここに道場ができる”っていう希望があったから、楽しかった」。

練習だけではない。設立したばかりの新日本プロレスは、事務所スタッフが2人しかいなかった。そのため、藤波は選手でありながら旗揚げ戦のポスター貼り、チケットを売り歩くなど営業活動も行った。

「このころは、猪木さんも付け人を付けず自分のことは自分でやっていた。事務所に行くと猪木さんの奥さんの倍賞美津子さんがチケットのスタンプを押していた。宣伝カーのアナウンスを美津子さんの姉の倍賞千恵子さんが吹き込んだりしてね。山本小鉄さんの奥さんが、事務所におにぎりを持ってきてくれて、そこで炊き出しをやってみんなで昼飯を食べたりしてね。みんな一丸となって頑張った。それが新日本プロレスのスタートだった」。

新日本プロレスの事務所は、猿楽町にあった猪木の個人事務所をそのまま使っていた。日本プロレスの事務所は代官山。至近距離にあったため、ハプニングもあった。

「旗揚げが近くなると日本プロレスの選手が殴り込んできた。ちょうど、自分は事務所の奥の応接間で昼寝をしていた。事務所の人から“出なくていい”と言われてね。怒鳴り声だけが聞こえてきた」。

波乱の中、待望の道場が完成した。旗揚げ戦の足音が近づくころ、藤波は、新日本プロレスのシンボルを作っていた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(9)山本小鉄さんと一緒に考えたライオンマーク
2017年2月22日15時0分 スポーツ報知

藤波と小鉄さんが原案を考えた新日本プロレスのライオンマーク

1972年1月29日。世田谷区野毛に新日本プロレスの道場が完成した。18歳の藤波辰爾はこのころ、今も引き継がれている新日本のシンボル「ライオンマーク」を作った。

「道場ができてしばらくしたころに山本小鉄さんと“新日本プロレスっていう団体名が決まったから、ポスターに載せられるシンボルマークが必要なんじゃないか”なんて話が出たんですよ」

練習後、ストーブの上で餅を焼きながらの会話だったという。すぐに山本小鉄も「それはそうだな」と賛成し、2人でシンボルマークへのアイデアを出し合った。

「団体の名前が、新日本プロレスだから、英語で書くと“NEW JAPAN”だな。“おい藤波、ニューってどういうスペルで書くんだ”って山本さんが聞いてきたりね(笑い)」

当時、道場の前には近所の女子高生が遊びに来ていたという。

「スペルが分からないから、山本さんから“外にいる女子高生に聞いて来い”って言われて、聞きに行ったりしてね」

さらに藤波は、キャッチフレーズが必要だと考え「プロレスの一番、王様みたいな所を狙いましょう」と山本に提案。「王様だったらキングだな」と浮かんだフレーズが「KING OF SPORTS(キング・オブ・スポーツ)」だった。

藤波と小鉄の2人は、デザインに着手した。

「マークだから、まずは、丸を書こうと考えて分度器を探したら分度器がなくてね。仕方ないから、どんぶりで丸をかいた(笑い)」

マークの象徴となるデザインも「最初、小鉄さんは虎を描いた。でも、自分が“キングって言ったら虎じゃなくてライオンですよ”って言って、それでライオンマークになった」

描いたイラストは、最初、虎かライオンか区別がつかなかったという。

「後日、専門のデザイナーのところに2人で作った原案となる絵を持って行った。“こういう感じで作って下さい”ってお願いして、今のシンボルマークが完成した。結果的に作ったのはデザイナーだけど、原案は自分と山本さんの2人だった」

道場が完成しライオンマークもできた。いよいよ3月6日、大田区体育館での旗揚げ戦がやって来た。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(10)新日本プロレス旗揚げ戦、試合前に猪木からの言葉
2017年2月23日15時0分 スポーツ報知

新日本プロレス旗揚げ戦で第1試合に出場した藤波

1972年3月6日。藤波辰爾にとって今も忘れられない日が来た。新日本プロレスの旗揚げ戦だ。前年の12月に日本プロレスから「除名処分」を受けたアントニオ猪木と行動を共にして3か月。18歳にとって待ちに待った記念日だった。

試合は、第1試合。新たに船出する新日本プロレスにとってもまさに最初の試合となった。新団体のスタイル、方向性を示す重要な一戦。試合前、猪木に呼ばれ、たった一言だけ指示を受けた。

「とにかく元気を出せ」。

元気があれば、何でもできる―今も自らのキャッチフレーズにしている「元気」を猪木は、旗揚げ戦で藤波に伝えていた。

「当時の自分は、猪木さんから言われても“精いっぱいやろう”としか考えられなかったけど、キャリアを重ねた今、言えることは、若手選手にとって一番大切なのはこの“元気”なんだ。技は下手でも、元気は、お客さんに伝わるもの。自分も今、若い選手には“うまくやろうとか考えなくていい。とにかく元気を出せ”とアドバイスをしている」

対戦相手は、アルゼンチン出身のエル・フリオッソ。まったく無名のレスラーだったが、藤波にとって初めての外国人との対戦だった。重圧は相当だったと思いきや、リングに上がった時、プレッシャーはまったくなかったという。

「もちろん、緊張はあった。でも、試合ができることの喜びが大きかった。それまでに、リングの外であまりにもいろんなことがありすぎたから試合でリングに上がることに変なプレッシャーはなくなっていた」

前年5月9日のデビュー戦は金縛りにあったような感覚で何もできず何も覚えていない極限の状態だった。しかし、旗揚げ戦は、まったく違っていた。わずか3か月で起きた嵐のような日々がタフな精神力を作り上げていた。ただ、肝心の試合は浮足だってしまったという。

「そのころ、得意技なんかない。技って言ったら組んでヘッドロックやって投げて、ロープに返ってきたらタックルで倒してっていうことぐらいだった」

20分1本勝負の試合は、わずか4分あまりの完敗だった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(11)苦難の船出だった新日本プロレス、18歳でプロモーターも経験
2017年2月24日15時0分 スポーツ報知

1973年に日本プロレスから新日本プロレスに移籍した坂口征二

1972年3月6日、大田区体育館で旗揚げした新日本プロレス。旗揚げ戦は満員の観衆を集めたが、地方興行は苦戦が続いた。観客動員力を持つレスラーは、アントニオ猪木だけ。テレビ中継もないから、選手の知名度はまったく広がらない。藤波辰爾は当時を「地方のプロモーターが興行をまったく買ってくれなかった。すべて自主興行だった。試合数も1か月10試合ぐらいしか組めなかった」と振り返る。

「そんな状態だったから自分は当時、18歳で選手、付け人でありながらプロモーターもやった。小倉に猪木さんの知り合いがいて試合を組んだんだけど、小倉だけで試合をするんじゃ選手の滞在費などの経費がでない。どこかでもう1試合ってなって自分がプロモーターになって大分のうちの田舎でやった。試合会場は学校のグラウンド。実家を事務所にしてチケットを売った」。

月給も決まっていなかった。選手で現場責任者だった山本小鉄が現場の経理も管理していた。給料も山本が渡していたという。

「小鉄さんから“今月はお前、3万円”とか言われて渡されていた。もちろん、明細書もなかった。でも、そのころは、“こんなに安いのか”とか不満はなかった。自分が好きなプロレスがやれるという満足感が上回っていた」。

新日本が旗揚げした72年は、プロレス界にとって激動の年だった。ジャイアント馬場が日本プロレスを退団し10月に全日本プロレスを設立。同時に日本プロレスを中継していた日本テレビが全日本の放映を開始した。苦しい運営を強いられていた新日本プロレスだったが、旗揚げから1年になろうという1973年2月。大きな光りが差し込んだ。元柔道日本一で人気だった日本プロレスの坂口征二の移籍が決まったのだ。超大物、坂口の入団でNET(現・テレビ朝日)が4月から放映を開始することも確定した。

「坂口さんが合流してテレビ中継もついた。さらに坂口さんに付いて日本プロレスから木村健吾、小沢(後のキラー・カーン)らも入団。そうこうしているうちに、初めての生え抜きとして藤原喜明が入ってきた。若手だけで選手は12、13人以上になった。そうなると、お互いにライバル意識が出てきて、切磋琢磨する環境が生まれた」。

坂口入団、テレビ中継スタートという追い風でプロモーターも興行権を買ってくれるようになった。試合数も月に20試合ぐらいに急増。新日本プロレスがようやく軌道に乗り会社らしくなった。一方、日本プロレスは新日本のテレビ中継が始まった4月に崩壊する。新たな時代が始まるうねりの中、藤波にも転機が来る。初めての海外遠征が決まったのだ。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(12)21歳で初の海外武者修行 ドイツから米国のゴッチ道場へ
2017年2月25日15時0分 スポーツ報知

21歳で初めての海外武者修行に出た藤波

1974年。テレビ中継もスタートし上昇気流に乗った新日本プロレスは、若手の登竜門となる大会「第1回カール・ゴッチ杯」を開催した。藤波を含む参加9人が総当たりリーグ戦で激突。優勝者は海外遠征の権利が与えられた。

藤波は、12月8日、愛知県刈谷市体育館での決勝戦で小沢正志(後のキラー・カーン)を破り優勝。デビューから5年目となった翌75年6月、21歳で初の海外遠征に旅立った。向かった国はドイツだった。

「当時の新日本が若手を海外に出す理由は2つあった。ひとつは、文字通り武者修行。日本では得られない経験を積んで成長させようというもの。もうひとつは、あわよくば、その選手が海外で大化けして帰国した時に興行にプラスになるという期待を込めたもの」。

結果的に、後にニューヨークでベルトを奪取し凱旋した藤波は、後者だった。ただ、出発する時はそんな成功が待っているとは知るよしもない。

「羽田空港から出発してね。不安もあったけど、海外で試合をするのは夢だったから楽しみの方が大きかった。ただ、現地に着いて途方に暮れた。試合が決まっていない。自分でプロモーターを探して交渉しなければならなかった。いつ日本に帰ることも決まってなかったし、文字通りの片道切符。感覚としては、ドイツに放り出された感じだった」

当時のドイツのプロレスは、観客へのアピールもなくエンターテインメント性は皆無だったという。

「観客も正装で紳士のスポーツという感覚だった。試合もアマレスを少し発展させた形で、形式も5分1ラウンドで3ラウンド制だった」。

ドイツで5か月を経た頃、初めて米国へ渡ることになった。フロリダ州タンパに住むカール・ゴッチから「来い」と呼ばれたのだ。「プロレスの神様」と呼ばれたゴッチは、当時、新日本プロレスに外国人レスラーを派遣する一方で選手として来日した時は若手レスラーの指導役も行っていた。プロレスの本場、米国へ胸を躍らせて向かったが到着すると現実は、過酷だった。

「ゴッチさんの自宅に世話になったんだけど、試合がなくて練習ばかり。毎日、朝6時に起床。6時30分から9時ごろまで練習。朝ごはんを食べて、その後は辞書みたいに分厚い昔の格闘技の本を渡されて読まされだ。それから夕方になると日が落ちるまでまた練習。それが半年も続いてね。太りたかったけどまったく太れなかった」

当時の米国マット界は、NWA全盛時代。NWAは、ジャイアント馬場の全日本プロレスと提携しており、ライバル団体の新日本プロレスの選手をリングに上げようというプロモーターはほとんどいなかった。そのため、ゴッチの自宅で練習するしかなかった。年が明けた1976年。ようやく米国で試合をする機会が巡ってくる。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(13)米国で初めての試合、リングネームは「ドクター・フジナミ」
2017年2月26日15時0分 スポーツ報知

天龍にコブラツイストで攻められる藤波。初の米国での試合のリングネームはドクター・フジナミだった

1975年秋。ドイツから米国に渡った藤波辰爾は、試合もなくフロリダ州タンパのカール・ゴッチの自宅で半年間、練習漬けの日々を繰り返していた。年が明けた76年春、ようやく試合が組まれた。

「たまたまゴッチさんの知り合いがサウスカロライナとかノースカロライナにいて、そこを回った。プロモーターが決めたリングネームはドクター・フジナミ。なんでドクターだったのか今でも分からない」

当時、日本人レスラーが米国で戦う時のスタイルは、顔はひげを生やし、裸足につぎはぎだらけの長ズボンをはいたいわゆる「田吾作スタイル」だったという。

「当時、馬場さんも猪木さんも米国で試合をやった時は、そういうキャラクターをさせられていた。でも、自分はゴッチさんが“フジナミにはこのスタイルはさせない”とプロモーターに断固として言ってくれて、最初からリングシューズを履いてショートタイツのスタイルで試合ができた。日本人で裸足でなくてリングシューズを履いて米国で試合をしたのは、自分が初めてだった」

1976年は新日本プロレスにとって激動の年だった。6月26日に日本武道館で猪木がボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリとの対戦を実現させたのだ。団体の命運を左右する一大事だったが米国にいた藤波は、まったく情報がなかった。

「猪木さんとアリが試合をすることは、事前にはまったく知らなかった。ゴッチさんは、自宅に日本から送ってきた雑誌を“お前はこんなもの見なくていい。練習だけしていればいい”と言って、全部没収された。日本から連絡もないしもちろん、仕送りもない。今と違ってインターネットがあるわけじゃないから、日本の情報は何も知らなかったし、新日本のことがどうなっていたのかわからなかった」

事前にまったく情報がなかった猪木対アリ。試合が決まったことを聞いた時は「猪木さんは、どえらいことをやるな」とだけ思った。ただ、この世紀の一戦が藤波の運命を左右していく。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(14)猪木対アリで動き出したニューヨークでのチャンス
2017年2月27日15時0分 スポーツ報知

1976年6月26日、日本武道館で戦った猪木対アリ

1976年6月26日。アントニオ猪木はムハマド・アリと戦った。「世紀の一戦」とうたわれた試合だったが結果は、引き分け。しかも猪木は、ほとんど寝ころんだ状態でまったく試合はかみ合わず「世紀の凡戦」と酷評された。試合の痛手は団体の経営も直撃した。莫大(ばくだい)なアリへのファイトマネーなどの支払いから10億円とも言われる巨額の負債を背負ったのだ。

米国にいた藤波辰爾には、そんな団体の危機はまったく知らなかった。年が明けた77年からはメキシコにも転戦。メキシコ特有の試合スタイルにもなじみ、タイトルマッチにも抜てきされた。プロレスラーとして着実に階段を上がっている実感が出始めてきた。24歳となった78年を迎えた時、カール・ゴッチから1本の電話が入った。

「来週、ニューヨークへ行け」。

続けてアントニオ猪木からも電話が入った。

「オレは来週、ロサンゼルスで試合をするからニューヨークへ行く前にお前もロスに来い」。

75年6月に初の海外遠征でドイツへ向かってから約2年半。ロスで猪木と再会した。

「猪木さんからは、WWWF(現・WWE)がジュニアヘビー級のベルトを復活させたから、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でお前がそれに挑戦すると言われた。MSGなんて名前は、聞いていたけど、どんなすごい会場かも分かっていなかった。そんな所で試合ができるって聞いてただただ驚いた」

試合は日本でテレビ中継されることも決まった。まったく無名の若手を猪木は大抜てきしたのだ。その背景にあったのが、猪木対アリ戦だった。

「これは、後から知った話だけど、当時の新日本は、アリ戦で抱えた借金で経営も厳しくなって、テレビの視聴率も下がってきて団体としてもテレビ局としても何とかしないといけないというテコ入れが必要な時期だった。今後、どうするかという会議を繰り返す中で外国人、日本人でも“若くて活きのいいのを呼ぼう”となったという。その方針の中でたまたま、その時、自分が米国にいて白羽の矢が立った」

当時の藤波は、そんな団体の事情は知らなかった。ただ「大きなチャンスが来た」とだけ感じていた。1978年1月。ニューヨークへ向かった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(15)ぶっつけ本番で繰り出したドラゴンスープレックス
2017年2月28日15時0分 スポーツ報知

初公開のドラゴンスープレックスでベルトを奪取した藤波

1978年1月23日。24歳の藤波辰爾は、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)のリングに立っていた。WWWF世界ジュニアヘビー級選手権。対戦相手はプエルトリコ出身のカルロス・ホセ・エストラーダだった。

会場に着くと日本から新日本プロレスの営業本部長だった新間寿が迫ってきたという。

「新間さんがいきなり“おい、お前、何かできるのか?テレビも来ているから、何かやれよ!”って言われてね。何かやれよって言われても初めてのニューヨークでMSG、それだけでも緊張しているのに、答えられなかった。ただ、周りのそういう状況を見てある部分、“あぁ、これは失敗したらもう日本には帰れないな”とは思った」

重圧の中、MSGのリングに立った。

「相手のエストラーダはニューヨークでも知られていたから向こうの方が人気があって、自分にはブーイングを浴びせられた」。

運命のゴング。試合が進むに連れ、ブーイングは静まっていたという。

「自分が繰り出す飛び蹴り、巻き投げが素早かった。技を出すたびにお客さんが静まり返っていったのを覚えている」

ただ、頭の中にあったのは、新間からの「何かやれよ!」だった。

「新間さんから、言われて“何かやりたい”っていうのがあったけど、試合前には思いつかなかった。試合をやっているうちに“そういえばスープレックスがあったな”と思い出した」。

甦ってきたのは、カール・ゴッチの自宅で半年間も続いた練習漬けの日々だった。

「あの時、ゴッチさんの自宅の庭でひたすらブリッジの練習をしていた。そこに人形があってね。ゴッチさんが人形を投げて“こんなスープレックスもある”って教えられていた。自分もゴッチさんを投げるわけにはいかないから、教えられた技をまねして人形を投げていた。その中にあったのが、相手を羽交い締めにして投げる技だった。試合をしながら“あっ!あれ使えるかな”ってひらめいた」。

その時が来た。エストラーダのボディプレスを自爆させると、背後に回った。フルネルソンで羽交い締めにすると一気に投げた。ブリッジで固め3カウントを奪った。ぶっつけ本番で繰り出したドラゴンスープレックスでベルトを獲得した。体重83キロ。細い体を弾ませリングで喜びをさく裂させた。

「もう、うれしくて。頭の中は真っ白だった。ただ、ドラゴンスープレックスは自分も今までやったことなかったから、後で新聞を見て“あぁ、こんな形だったんだ”って分かったぐらいだった」

まさに、誰も見たことのない必殺技は、観客に衝撃を与えた。

「MSGが水を打ったように静まり返ってね。でも、しばらくすると、スタンディングオベーションで大きな拍手がわき起こった」

控室では新間が興奮していた。

「新間さんが飛んで来て“お前、あれ凄いな!あれ凄いな!よくやってくれた”ってすごい興奮してくれた」

衝撃のドラゴンスープレックスで藤波は、一夜にしてヒーローになった。しかし、厳しい視線も待っていた。(敬称略)
【藤波辰爾45周年ヒストリー】(16)怒りを呼んだ衝撃のドラゴンスープレックス
2017年3月1日15時0分 スポーツ報知

ドラゴンスープレックスはニューヨークのトップ選手の怒りを買った

初めてのニューヨークでベルトを奪取した藤波辰爾。観客が静まり返るほどの衝撃を与えたドラゴンスープレックスは、仲間のレスラーたちを刺激した。

「当時、米国ではパイルドライバーとかいくつか危険な技が禁止されていた。羽交い締めにしたまま、後ろに投げるドラゴンスープレックスは、相手がケガをすると他のレスラーが感じたようだった。ベルトを取って“他のレスラーは、どうやって迎え入れてくれるだろう”って控室に戻ったら、これが針のむしろ。“お前、やっちゃいけない技をやったな。相手をケガさせる気か!”っていう怒りに満ちた視線が矢のように突き刺さってきた。ブルーノ・サンマルチノ、ゴリラ・モンスーン、スーパースター・ビリー・グラハム、ペドロ・モラレス…。すべてのトップ選手ににらまれた。あれは、きつかったな」。

当時のニューヨークを代表するすべてのスター選手から厳しい視線と無言の圧力がのしかかった。ただ、一人だけ称賛してくれた人物がいた。プロモーターのビンス・マクマホンだった。今、世界最大のプロレス団体「WWE」を率いるビンス・マクマホン・ジュニアの父だ。

「マクマホンだけが“よくやった”と握手してくれた。あれが救いだった。当時のニューヨークは、ビリー・グラハムが王者でマッチョでいかつい選手がトップを張り続けてきた。マクマホンもそういう時代からスタイルに改善しなきゃいけない時期だと考えていた。だから、自分のスタイルを評価してくれた。それが証拠に、自分がベルトを取った直後に、ボブ・バックランドがグラハムを破ってチャンピオンになった」。

ファイトマネーも跳ね上がった。

「当時は、米国での試合は1週間ごとにギャラが入ってきた。それまでは、1週間に何試合かして2000ドル(約40万円)ももらえれば“今週は良かったな”っていうぐらいだった。それが、MSGに1回上がっただけで、7000ドル(約140万円)ぐらいになった。自分でこれぐらいだったから、チャンピオンだったバックランドはいくらもらっていたのかと思う(笑い)」

日本でもテレビ中継された戴冠劇。マクマホンが時代の変化を予感したようにジュニアヘビー級というカテゴリーすらなかった当時。アントニオ猪木でも坂口征二にはないシャープでスマートなジュニアヘビー級の藤波のスタイルは、新しい時代の到来だった。さらに彫刻のように筋肉で固められた肉体は、女性ファンもとりこにした。国内では凱旋帰国を待ちわびるファンの熱気が沸騰。シンデレラのように一夜にしてヒーローとなった。3月に始まる新シリーズに合わせて凱旋帰国が決まった。

「もう少し米国でやりたい気持ちとようやく帰ることができるうれしさが入り交じった複雑な心境だった。また、不安もあった。体もできていなかったし当時の新日本は、ヘビー級が全盛だった。自分のスタイルがどれだけお客さんに受け入れられるか。通用するのか」

1978年2月22日、藤波は羽田空港に凱旋帰国した。3年半ぶりの日本。心の中にあった不安は空港のロビーを出た瞬間に消え去った。

「有名な外国人の俳優が来日した時みたいに、すごい数のファンが殺到してね。こんなに注目されているのかってうれしかったし、自信になった」

実は、このお出迎えは、営業本部長の新間寿が「サクラ」を集めた演出だった。

「新間さんが絵作りでサクラに声をかけたって聞いたけど、新間さんも“あんなにオレは声かけていない。すごい人気になってるぞ”と驚いていた」。

空前のドラゴンブームの始まりだった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(17)凱旋試合で叫んだ「ネバーギブアップ」
2017年3月2日15時0分 スポーツ報知

凱旋帰国で日本初公開のドラゴンスープレックスを披露した藤波

ニューヨークでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取。一夜にしてシンデレラボーイとなった24歳の藤波辰爾は、2年9か月ぶりの凱旋帰国で信じられないほど大勢のファンに迎えられた。新日本プロレスは1978年3月3日に群馬・高崎市民体育館で開幕するビッグファイトシリーズを「凱旋シリーズ」と銘打ち、新しいスターを大々的に売り出した。

期待に満ちた凱旋試合だったが胸の中は不安だらけだったという。

「注目されてうれしかったんだけど、凱旋試合が近づくと日増しにすごいプレッシャーがのしかかってきた。久しぶりの日本での試合で、海外に出る前とは周りの自分への見方が全然違う。ファンの期待に応えないといけないという重圧しかなかった」

対戦相手は、マスクド・カナディアン。ベルトを奪取したドラゴンスープレックスで破った。

「ニューヨークで決めた技を日本でも見せたかった。ただ、この試合は必要以上にテンションが上がってしまい、海外で学んだことを“すべて出してやろう”と浮足立ってしまった記憶がある」。

試合後、リング上でのインタビューで「ネバーギブアップ」と叫んだ。以後、藤波の代名詞となった。

「あれは、考えていた言葉じゃなくて、とっさに出てきた。やっとつかんだこのチャンスを逃すものかっていう気持ちがあの言葉に出たんだと思う」。

凱旋帰国当時のギャラは1試合15万円だったという。

「今、思えば安かったのかもしれないけど、この時は試合をすることが楽しくて充実していたから、お金には執着していなかった。それよりも、全国どこへ行っても声をかけられてね。そんなことは、海外に行く前には考えられないことだったから、そういうファンの声もうれしくてね。お金に関しては別にもらえればいいというぐらいだった」。

後に給料は1試合ごとのギャラではなく年俸制となった。放送局のテレビ朝日とアントニオ猪木、坂口征二と並んで特別契約を結ぶことになる。力道山からヘビー級が主役だったプロレス界にジュニアヘビーという新たなジャンルを築いた。甘いマスクと筋肉の鎧で固められた美しい肉体は、それまでプロレスを敬遠していた若い女性ファンを会場に呼び込んだ。

「ただ、自分自身は不安しかなかった。当時の日本のプロレス界は力道山先生から脈々と受け継がれてきた猪木さん、馬場さんを代表にしたヘビー級全盛だったから、パワーでは見せられない自分のスタイルがどこまで受け入れられるか、不安を抱えながら試合をしていた。ただ、そういう不安があったから“もっといい試合をしないといけない”って気合を入れてリングに上がっていたと思う」。

不安という危機感があったからこそ、試合でファンを魅了した。藤波が思っていた杞憂(きゆう)を吹き飛ばすように人気は沸騰。試合も日米で行った。

「当時は、シリーズが終わると海外で試合をして、それを中継することになっていた。だから、シリーズが終われば、すぐにメキシコ、カナダ、米国へ行った。今では考えられないスケジュールだった。一番、ハードだったのは、ニューヨークで1泊3日で遠征した時かな。あんな過酷なスケジュールでよく体が持ったと思う」

WWFジュニアヘビーの王座は24回連続防衛。1979年10月2日に剛竜馬に敗れるが、2日後の10月4日にすぐに奪い返し、ここから28回連続防衛と勝ち続けた。1980年2月にはNWAジュニアも奪取しジュニア2冠王にも輝いた。普通なら有頂天になりそうな環境だったが、そうはならなかった。山本小鉄がいたからだった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(18)忘れられないチャボ・ゲレロとの大流血戦
2017年3月3日15時0分 スポーツ報知
藤波を公私ともにアドバイスしていた山本小鉄さん

ジュニアヘビー級で人気が沸騰した藤波辰爾。ファンの大声援は、24歳の男にとって自分を見失う危険もはらんでいた。

「そうならないように注意してくれたのが山本小鉄さんだった。このころは、試合が終わると必ず山本さんが自分を横浜の自宅に呼んで、いろいろアドバイスを受けていた」

山本小鉄は、高校を卒業後、一般企業に就職しボディビルで体を鍛え、1963年に日本プロレスに入門。170センチ、100キロの小柄な体ながら闘志あふれるファイトスタイルで人気を得た。星野勘太郎とのコンビは「ヤマハブラザーズ」として米国でも活躍した。日本プロレス時代はアントニオ猪木の練習パートナーを務め、そのプロレスへの考え方に共鳴。当時、藤波は猪木の付け人を務めており、若手時代から先輩として身近に接していた。

1971年に猪木の除名を受けて藤波と同じように日本プロレスを退団し新日本の旗揚げに参加した。1980年4月に現役を引退後は、テレビ朝日の解説者として実況の古舘伊知郎とプロレス中継を盛り上げ、2010年8月に68歳で亡くなった。藤波を自宅に呼んでアドバイスをしていたこのころは、現役選手として活躍する一方で若手レスラーのコーチ役を務め、厳しい指導から「鬼軍曹」と呼ばれ、恐れられていた。

山本からは「リング上では絶対に気を抜くな。ファンも増えて周りは変わっていくが、それに左右されるな、振り回されるな。天狗になるな」と常に言われ続けた。日本プロレス時代から信頼してきた先輩の厳しくも温かい言葉に常に励まされ、また自らを戒められたという。

気持ちが引き締まったの山本の助言だけではない。猪木の厳しさもあった。

「ある巡業先で試合前に練習していると、猪木さんから“ちんたら、やりやがって”とプッシュアップ用の板で頭を殴られた。頭が割れてね、血が流れるほどの強さだった。当時は新日本全体が人気も出てきて浮かれた感じがあった。それを察知した猪木さんは、若手じゃなくてあえて自分に気合を入れることで選手全員を引き締めたんだと思う」

リング外での緊張感が藤波だけでなく新日本全体の試合を研ぎ澄ませていった。

「今の時代では、ありえないやり方だと思う。ただ、自分たちの時代は、猪木さん、山本さんがそうやって締めてくれたから常に緊張感を持ってリングに上がることができた」

エル・カネック、ダイナマイト・キッドら外国人選手はもちろん、剛竜馬、木村健吾ら日本人選手とも数々の名勝負を展開したジュニア時代。中でも最も忘れられない試合は、78年10月20日、大阪・寝屋川市民体育館でのチャボ・ゲレロ戦という。

「60分3本勝負でね。2本目にドラゴンロケットが100パーセント決まったと思ったら、まさか、チャボがかわして、大流血に追い込まれた。今、振り返っても衝撃のシーンだった」

おびただしい流血戦を最後はコブラツイストで制した。

「あれだけの流血は、プロレスじゃなかったら他のスポーツなら普通はドクターストップかレフェリーが止めるはず。でもプロレスは、ファンの期待に応えるために試合が続行される。ある部分、これぞプロレスという試合だった」。

チャボ・ゲレロは、今年2月11日に肝臓がんのため、68歳で亡くなった。

「本当に早く亡くなって残念ということに尽きる。ただ、自分とあれだけの試合ができて、今は感謝しかない」。

忘れられない試合の裏側でプライベートで大きな出会いがあった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(19)かおり夫人との出会い プロポーズは小鉄さんが後押し
2017年3月4日15時0分 スポーツ報知
チャボ・ゲレロ戦がきっかけで出会ったかおり夫人(左)と藤波

1978年10月20日、大阪・寝屋川市民体育館でのチャボ・ゲレロとの大流血戦。試合の翌日、藤波辰爾が宿泊しているホテルの部屋に大きな果物かごが届けられた。送り主は、後に妻となるモデルの沼谷かおりだった。

「女房は、この試合が初めてのプロレス観戦だった。もちろん、自分とは面識もなかった。ただ、大きな果物かごは今も覚えている。病院に入院した人に贈るような大きなものでね。誰が贈ってくれたんだろうって驚いた」

友人に誘われ初めてプロレスを観戦したかおりは、すさまじい流血で試合後に体育館から病院に運ばれる藤波を観客の一人として見ていた。果物は、純粋にケガを心配してお見舞いとして贈ったという。5日後、再び大阪で試合があった。場所は堺市金岡体育館。前日、かおりは、友人に「電話してみない?」と誘われて、藤波の宿泊するホテルを友人が探し当て電話をした。

「果物を贈った者ですが、おケガは大丈夫ですか?」。

まったく面識のない一人のファンからの突然の電話にも藤波は「どうもありがとうございます」と丁寧に応対したという。

迎えた金岡体育館の試合当日。会場で観戦に駆けつけたかおりだったが、仕事で藤波の試合に間に合わなかった。試合の合間にトイレから出た時に運命の出会いが待っていた。藤波が試合を見るために立っていたのだ。

初対面。かおりから声をかけた。「昨日、電話した者ですが」と話しかけると藤波はお礼を伝え「今度、食事でも行きましょう」と誘い、電話番号を交換した。

初めての食事だったが、「変な人だったらどうしよう」と警戒したかおりは、友人と同伴でレストランに現れたという。しかし、スマートで紳士な藤波との会話は弾み、この会食をきっかけに交際が始まった。

初めてのデートは高倉健主演の映画「野生の証明」。「自分もデートなんて慣れていないから、ある時、喫茶店でココアとプリンを頼んで、2つとも自分が食べてしまった。“私の分は注文してくれないんですか?”って、あきれられた。その時の話は、今も言われるよ(笑い)」。

交際が始まりすぐに結婚を意識したという。プロポーズは、その年の暮れだった。背中を後押ししたのは、公私共にアドバイスをしてくれた山本小鉄だった。

「山本小鉄さんの自宅にいた時に山本さんから“お前、意中の人がいるなら今すぐ電話してプロポーズしろ“って言われてね。夜中の1時ごろかな。“結婚してください“って伝えました。彼女も電話の向こうで涙ぐんでいた」

プロポーズはしたが、同時に3年待って欲しいと伝えた。

「なんで3年って言ったのか自分でも分からないけど、自分自身がレスラーとしてもっと安定しないといけないという思いもあった。そこまで3年はかかると思ったのかもしれない」。

婚約発表は、劇的だった。81年6月8日、ジュニアヘビー級のベルトを奪取したニューヨークのMSGでフィアンセとしてかおりが紹介されたのだ。営業本部長の新間寿が考えたサプライズだった。

「新間さんは、サプライズというか驚かせることが好きな人だったから。婚約発表もサプライズ的な演出を考えてくれて、リングで発表という形になった。ファンは、どんな反応になるのかなと心配だったけど、その時のニューヨークのファンが総立ちで祝福の拍手をしてくれてね。あれは感激したね。今でもあの感激はよく覚えている」。

プロポーズから3年後の81年12月14日、京王プラザホテルで結婚式を挙げた。生涯の伴侶を得た27歳。公私共に充実の時だった。
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【藤波辰爾45周年ヒストリー】(20)夢のオールスター戦 知られざる鶴田さんからの電話
2017年3月5日15時0分 スポーツ報知
2000年5月に49歳の若さで亡くなったジャンボ鶴田さん

公私共に充実していたジュニア時代の藤波辰爾。歴史的な試合にも出場した。79年8月26日、日本武道館で行われた夢のオールスター戦だ。

東京スポーツが主催し全日本、新日本、国際の3団体が集結した合同興行。メインイベントは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木のBI砲が約8年ぶりに復活しタイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦した。藤波は、ジャンボ鶴田、ミル・マスカラスと組みマサ斎藤、タイガー戸口、高千穂明久と対戦した。

当時、25歳の藤波は、アントニオ猪木の後継者とクローズアップされていた。28歳の鶴田も全日本プロレスでジャイアント馬場の次を担う若きエースの看板を背負っていた。次代を担う2人は、かつての馬場と猪木のように比較されていた。2人の対戦をファンは待望したが、マッチメイクは夢のタッグ結成で落ち着いた。試合は、鶴田、マスカラスと3人でドロップキックを披露するなど見せ場を作った。マスカラスがフライングボディプレスを決め斎藤を抑えた。

「周りからはジャンボとやるのかと期待されたが結局はタッグを組むことになった。いい緊張感で試合をやったことを覚えている」。

当時は団体間の壁が高かった時代。それまで、鶴田とはほとんど会ったこともなければ会話したこともなかったという。

「この時も試合前に話はしたけど、お互いに“元気?コンディションは?“とかそんな、たわいものないもの。深い話はしなかった」

最初で最後となったオールスター戦でのタッグ結成。以後、2人は、ライバル団体の若きエースとして君臨した。藤波は何度かリップサービスの意味も含めマスコミを通じ対戦をアピールしたが、交わることはまったくなかった。

鶴田は1992年11月にB型肝炎を発症したことを明かし、第一線から退いた。以後、94年には筑波大大学院に合格し非常勤講師として教壇に立った。プロレスは99年3月に正式に引退。米国オレゴン州のポートランド州立大学へ赴任し家族と共に日本を離れ米国へ移住した。

2000年が明けたころ、藤波の自宅に国際電話がかかってきた。妻のかおりが出ると「あなた、鶴田さんからよ」と告げられた。

「えっ!ってびっくりした。それまで鶴田さんから自宅に電話がかかってきたことは一度もなかった。もちろん、ほとんど会ってないから電話番号も教えていない。どうやって自分の家の番号を聞いたのかも分からない。自分も鶴田さんが海外に行ったことは知っていたけど“なんで電話をしてくるのだろうか?何事か”と思ってね。とにかく驚いた」

受話器を握ると鶴田は、こんな話をしたという。

「突然のお電話ですみません。どうしてもお話がしたくて、今度、日本に帰ったときに飯でも食いに行きましょう」。

藤波も「ぜひ行きましょう」と応答した。しかし、それから数か月後の5月13日、鶴田は肝臓の移植手術を受けるため渡ったフィリピン・マニラで亡くなった。49歳の若さだった。

「あの電話が鶴田さんと自分の最初で最後のきちんとした会話だった。それまでは、ほとんど話をしたことなかったからね。今、思えば、ある部分で鶴田さんは自分の運命を分かっていて、そんな中で自分とどうしても何か話をしたいことがあったんだろうかと考えることもある。一体、鶴田さんが話をしたかったことは、何だったのだろう?と今も思う。とにかく、鶴田さんが言っていたたように、飯でも食って話をしたかった…」。(敬称略)
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【藤波辰爾45周年ヒストリー】(21)衝撃のタイガーマスク登場!ジュニアからヘビー級転向
2017年3月6日15時25分 スポーツ報知
初代タイガーマスクと対戦する藤波

1981年、27歳の藤波辰爾に転機が来た。輝かしい栄光を築いたジュニアヘビー級を卒業しヘビー級への転向を決めた。

「自然と体も大きくなって、いいタイミングだった」

なかなか80キロ台から増えなかった体重が90キロ、さらに100キロへと自然と増えたという。裏側には、この年の12月に結婚した妻・伽織の存在が大きい。

「ずっと歯が悪くて全然、治療もしなかった。そんな状態を見て女房に“歯を治しなさい”って言われて、6本も治療した。そうしたら、食事も今まで以上にたくさんが食べられるようになってね。女房の料理も美味しいから、80キロが90キロ。90キロが95キロ、100キロとすぐに体が大きくなっていった」。

ヘビー級転向を後押しした背景には、団体内で大きな動きがあった。タイガーマスクの出現だ。当時、テレビ朝日で放送されていたアニメ「タイガーマスク二世」とのタイアップで現実のリングにタイガーマスクの登場を企画。新日本の若手レスラーで英国、メキシコなどで海外武者修行中だった佐山聡に白羽の矢が立った。

佐山がマスクをかぶったタイガーマスクは、4月23日、蔵前国技館のダイナマイト・キッド戦でデビューした。華麗な空中殺法に切れ味鋭い蹴り、豪快なスープレックスと見たこともないスタイルをいきなり見せつけた。藤波がニューヨークでファンの心をわしづかみにしたように、タイガーマスクも一夜にしてスターとなった。

「タイガーマスクの試合は同じレスラーとして自分も久々に興奮した。考えられないような技、スピード、切れとすべてに置いて自分とは次元が違った。自分がこれまでやってきたジュニアヘビー級とは、まったくかけ離れた試合だった。会社としてもジュニアに新しいスターが生まれたと考えたし、自分としてもジュニアの中でタイガーマスクと張り合うわけにはいかないと思った。結果としてヘビー級に転向するいい追い風になった」

藤波が脱帽したタイガーマスクの試合は、日本中で人気が沸騰。アニメのタイガーマスクをも上回るパフォーマンスは、エースのアントニオ猪木をしのぐほどの声援を集めた。テレビ視聴率もグングン上昇していった。自らが開拓したジュニアヘビー級をさらに進化させる新たなスーパースターが登場。ヘビー級への転向は自然の流れだった。

「このころは、すべていいタイミングで進んでいった。自分としても充実していた時期だった」

10月16日、大分でスチーブ・トラビスを破り28度目の防衛を達成後、WWFジュニアヘビー級王座を返上。11月5日にアニマル浜口戦でヘビー級転向初戦を行った。年が明けた82年からは、新日本プロレスは、ヘビー級転向を後押しする企画「飛龍十番勝負」をスタート。ハルク・ホーガン、アブドーラ・ザ・ブッチャーらヘビー級の大物と一騎打ちを行った。公約の十番までは届かなかったが、大物レスラーとの対決でヘビー級の藤波をアピールした。82年8月31日にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリッドを破りWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取。ジュニアのベルトを奪取した記念の地でヘビー級に転向し初のタイトルを獲得した。

「藤波というレスラーにとって公私共に安定していた時だった。このままのペースで乗っていきたいと思っていた」。

名実共にアントニオ猪木の後継者として歩み始めた時、思いも寄らない男が牙をむいた。

長州力だった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(22)長州力の反逆 1982年10月8日、後楽園ホール
2017年3月7日15時0分 スポーツ報知
長州力(左)の反逆から始まった宿命の対決

1982年10月8日、後楽園ホール。28歳の藤波辰爾は、メインイベントでアントニオ猪木、長州力と組んでアブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレン、SDジョーンズと対戦した。

異変はリングアナウンサーがコールした時に起こった。真っ先に呼び上げられた長州がリングアナへ抗議したのだ。タッグマッチのコールの順番は、先に呼ばれる選手は格下となる。格下扱いを受けた長州は、あからさまな不満を表した。

「彼が何を言っているのか分からなかった。何が気に入らないのかも分からなかった」。

ゴングが鳴ると、長州が先発を拒否。藤波もタッチを無視した。互いに張り手を見舞い、相手そっちのけで乱闘となった。試合が終わっても、激しくぶつかりあった。試合後、長州は「オレはお前のかませ犬じゃない」と叫んだという。

「試合が進むうちに自分に対する嫌な部分があるんだろうっていうことが少しずつ感じてきた。彼が仕掛けてきたから、こっちも引けなかったし引くつもりもなかった。相手のことなんか考えずにやり合うしかなかった」。

試合前、長州が反逆する行動はマッチメイカーだった猪木と坂口征二からまったく聞かされていなかったという。

「もしかしたら、自分だけが知らなかったかもしれない。猪木さんなのか新間(寿)さんなのか、分からないが恐らく誰かが長州にやれとけしかけたんだと思う。もし、事前に長州が反逆することを知っていたら、あれだけの感情むき出しでやり合うことはできない」

長州は、アマレスでミュンヘン五輪に出場し74年に専大から鳴り物入りで新日本に入団。ただ、人気は上がらず当時は中堅レスラーの一人だった。一方の藤波はジュニアヘビーで一時代を築きスター街道をひた走った。ただ、中卒でプロレス入りした藤波から見れば長州は入団した時からエリートだった。

「長州が入ったころは、自分は、新日本を家族のように考えていた。一人でも多くの選手が入って団体が大きくなって欲しいという思いだった。そんな中で五輪に出場した選手が入ったということで“これで新日本がまた大きくなれる”っていう喜びを感じていた。入ってからは、彼は別格だった。一緒に食事に行ったこともなかったし、巡業でもそんなに話をしたこともなかった。ライバルという感覚はまったくなかった」。

鳴かず飛ばずだった長州は反逆する直前にメキシコへ海外遠征を行いタイトルを獲得していた。凱旋帰国したが、それでも藤波より格下扱いは変わらなかった。

「長州の中でフラストレーションがたまっていたと思う。何をやってもうまくいかなくて面白くなかったと思う。そのくすぶっている感情に誰かが火を付けた。猪木さんか、新間さんも営業から入れ知恵したかもしれない。それに長州はヒントを得て、突っ走ったんだと思う」

長州が心の奥底にためていた本物の感情をリング上で爆発させたから、あの後楽園ホールでの反乱は、リアリティがあったのだ。ただ、両者の仲間割れ劇は、仕掛けたはずの猪木も驚いていたという。

「猪木さんが、長州をけしかけたかもしれないけど、自分たちの感情が収まらなくて試合中は、本気で止めてた。違った方向に行ったらまずいと考えたんだと思う。試合後も控室で“お前ら試合をぶちこわしやがって”って真剣に怒っていた」。

猪木の予想を遥かに上回った長州の反乱。2人の抗争は、爆発的な人気を産んでいく。(敬称
【藤波辰爾45周年ヒストリー】(23)ガチな感情をぶつけた長州との戦い
2017年3月8日15時0分 スポーツ報知
藤波のライバルとなった長州力

まったく聞かされていなかった長州の反乱。藤波辰爾には、いら立ちがあった。

「ジュニアで頑張ってきて新日本の藤波を築いて自分としては、心地いい世界にいた。自分は、このままで行きたかった。それが長州に横やりを入れられて“何なんだ”っていう思いがあった。長州という存在は、自分の視野の中にはまったくなかった」。

後にドル箱カードとなった長州との戦いだったが、当初は藤波自身が望んだ抗争劇ではなかった。

「今だから思うけど、自分の考えとはまったく違うこんな嫌なことをされて、自分がこういう性格じゃなかったら“やめてやるよ”ってなったと思う。でも、会社は、自分の性格を見抜いて“藤波なら、多少、理不尽なことをしても新日本を捨てて出て行くことはない”と読んでいたんだろうね」。

温厚で一線を越えることをしない藤波の性格を新日本の幹部は逆手にとって長州との抗争を仕向けたのかもしれない。収まらない感情をリング上で長州にぶつけた。反乱から2週間後の1982年10月22日、広島県立体育館でで初めて一騎打ちが組まれた。

「新日本の伝統として自然発生的に生まれたハプニングを興行に生かしていくところがある。この時は、選手の感情のあるがままをマッチメイクにした。自分自身、個人的な感情を持った状態で“試合になるかな”という不安はあった。一歩、間違えたら大変なことになるという思いはあった」。

結果は無効試合だったが、感情と感情が激しくぶつかる試合にファンは興奮した。以後、2人の戦いは、実況の古舘伊知郎によって「名勝負数え歌」と絶賛された。

「このころは、長州が目線に入ることすら嫌だった。おそらく長州もそうだっただろう。試合前に自分が練習していると長州は姿を見せない。自分が引っ込むと長州が出てきた。もちろん、会話なんてあるはずがない。だから、試合はガチな気持ちで試合をやっていた。今までに経験したことのない個人的な感情をむき出しにしてぶつかっていた。だからお客さんも興奮してあれだけ沸いたのだと思う」。

ガチンコの感情をぶつけながら、ギリギリのところでプロレスを成立させていた。それが藤波対長州戦だったのだ。

「ガチな感情だった試合が興行になっていった。試合を重ねていくうちに、長州への個人的な感情は抜きにしてプロレスラーとしてこのレールに乗っかっていかないといけないと考えるようになっていった。とにかく全国どこへ行っても自分と長州が絡むとお客さんが異常な沸き方だった。今、思うと自分がジュニアで凱旋した時と状況が似ていたと思う。ある部分、これまでのプロレスがマンネリ化していた。お客さんは新しい刺激を求めていた時だった。そこから一気にまた盛り返していった」

因縁の激突に過熱した会場。客席で藤波ファンと長州ファンが試合そっちのけで殴り合いのケンカをしてこともあったという。

「会場であんな光景は、今まで見たことがなかった。あそこまでファンを熱くさせる試合をやっているのか、と自分のことだけど驚いた」。

日本中を熱狂させた名勝負数え歌は、ひとつの試合でピークを迎えた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(24)輝いた長州力 1983年4月3日、蔵前国技館
2017年3月9日15時0分 スポーツ報知
藤波が認め合うライバルとなった長州

1983年4月3日、蔵前国技館。藤波辰爾は、WWFインターナショナルのベルトをかけて長州力と対決した。前年10月に突如として起こった長州の反乱から半年間で3度目の一騎打ちだった。

「長州が反乱したのは、ジュニアでひとつの時代を築き、華やかな世界にいた自分へのジェラシーがきっかけだったと思う。ただ、このころは、全国の各会場でだんだん、長州への声援が大きくなり自分への声援は小さくなっていった。反対に自分が長州にジェラシーを持つようになっていた」。

当時は、金曜夜8時で中継され、視聴率は20パーセントを超えていた。格を覆した長州の反逆は、革命戦士と呼ばれ権威に挑む社会的なシンボルとなった。現状に不満を持つサラリーマン、学生を中心にカリスマ的な人気を呼んでいた。同時に藤波の中でも変化が出てきた。抗争劇が始まった当初は、互いのガチな感情をぶつけていたが、リングで肌を合わせるうちにライバルを認める感情が出てきたという。

「当時の長州は、やっとプロレスの面白さを知ったころだったと思う。自分にも覚えがあるけれど、こういう時はリングに上がることが楽しくてしょうがない。動きも素晴らしく良かった。入門してから、ずっとくすぶっていた時代が終わって、長州がようやく開花した時代だった」。

藤波28歳。長州31歳。互いにレスラーとして10年を超え脂がのっていた。戦う感情、プロレスを産み出すハーモニー…すべてが頂点に達した時に4・3蔵前があった。試合は、ゴングが鳴ってから、まったく休む間もなく互いが持っている技のすべてをぶつけ合った。最後は長州のリキラリアットから髪の毛をつかみながら肩を押し込む執念のフォールに藤波はカウント3を喫した。

「リングで倒された時、長州がマサ斉藤と抱き合ってジャンプしていた姿を見た。負けた悔しさはあったが、あの時の長州は今まで見たことがない一番いい顔をしていた。彼は輝いていた」。

この試合は、83年のプロレス大賞で年間最高試合に選ばれた。以後、現在に至るまで20試合ほどの一騎打ちを行ってきたが、4・3蔵前が「一番いい試合だった」と振り返る。

「長州とはいい汗かけた。自分が持っているものすべてを出し惜しみなくできた。彼はレスリングをベースにしたものをすべて織り交ぜて出し切っていたと思うし自分も16歳からこの世界に入ってたたき込まれたことをぶつけられた。プロとしてお互いがいい部分を出し合えた」。

4・3蔵前は、藤波と長州が互いをプロレスラーとして心の底から認め合った試合でもあった。

「ただ、その後も長州とは話をすることはなかった。それでもリングで戦えばプロレスへの感覚が自分と同じだということは分かった。だから、あれだけの試合ができたのだと思う。それは、自分が新日本の社長になって長州がマッチメイカーだった時も同じだった。自分が言わんとしたいことを反映してくれていたし、信頼感があったし安心だった。長州が組んだ試合に自分が口を出すことはなかったし、マッチメイクを見ただけで長州がどういう思いを持っているのかが分かった。選手が勘違いするとゲキを飛ばすとか、そういう長州のやり方を煙たく思っていた選手もいたと思う。それでも、自分は長州の考えが分かっていた。言葉を交わさなくてもプロレスの考えが分かる存在。それが長州だった」

2人の戦いは、会場に観客を呼び新日本プロレスの屋台骨を支えるドル箱カードになった。歯車がかみあった時、またしても行く手をさえぎる事件が発生した。1984年2月3日、雪の札幌だった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(25)雪の札幌 テロリスト藤原喜明出現
2017年3月10日15時0分 スポーツ報知
札幌で長州を襲った藤原喜明

宿敵、長州力と名勝負を展開した29歳の藤波辰爾は、充実の時を迎えていた。1984年2月3日。札幌中島体育センターで長州との一騎打ちが組まれた。前年の9月以来、5か月ぶりの対決は、テレビ生中継。試合前からファンの期待は膨れあがっていた。

「この時は、札幌だけじゃなく自分と長州との戦いで日本中が沸き返っていた」。

ところが、予期せぬ事態が起きる。先に入場しリングに上がった藤波。長州のテーマ曲「パワーホール」が鳴り響き、花道に姿を見せたその時だった。中堅レスラーの藤原喜明が突如、現れ金具で長州の額をめった打ちにしたのだ。大流血しリングに上がった長州だったが、試合はゴングが鳴ることもなく不成立となった。

「藤原が長州を襲うことは、事前に何も聞いていなかった。そういうのは、知りたくもないし、知ろうとも思わない。後から“あの時は、こういうことだったのか”と思うぐらい」

長州の反逆と同じようにまったく知らなかった藤原のテロ行為。「名勝負数え歌」と評された2人の戦いへの横やりに、温厚な藤波がついにキレた。レフェリーのミスター高橋をボディスラムでたたきつけ、制止する若手選手に張り手を浴びせタイツ姿で会場を出た。会場の外まで若手レスラーだった高田伸彦(現・延彦)が心配して付いてきたが、思いっきり張り飛ばした。追いすがる記者に「こんな会社やめてやる!」と吐き捨てた。

「自分の試合を壊されたことがあの言葉になった。あのころは自分も長州を認め、戦っていて心地よかった。それなのに、そういう2人の戦いをぶち壊そうという勢力がこの会社の中にいることを感じた。自分の試合を壊されて頭に血が上った。会社がやることに自分自身、何か違うなと思った」

雪が降るなか、タイツ姿のままタクシーに乗ってホテルへ戻った。

「体に血が付いたままの裸で帰ってね。“着替えもないしどうしよう”とロビーに入ったら、ちょうど雪祭りの時期で観光客がごった返していた。そんな中に血まみれになってすごい形相になった自分が入って来たからお客さんは、みんなビックリしていた」

部屋に入ると、すぐに札幌を立ち去りたい衝動にかられた。

「札幌にいること自体がいたたまれなかった。ロビーに電話して“今日中に羽田に着く飛行機のチケットを手配して欲しい”って言ったら“お客さん、もう今日は飛行機は飛んでいません”って言われた。考えてみれば、最終便はとっくに飛んでいる時間だったんだけど、そんなことも考えられないほど、とにかく、一刻も早く札幌から出たかった」。

藤波の憤りの一方で長州を襲った藤原は「テロリスト」の異名を取り、一躍スター選手の仲間入りを果たした。長州が反旗を翻しスポットライトを浴びた時と同じように新日本プロレスは、藤波の思いを犠牲にしながら新しい人気選手を産み出したのだ。

雪の札幌事件から34年。今、何を思うのか。

「当時、自分と長州の戦いで日本中が沸き返っていた。そうなると、他の選手は、注目を浴びる戦いの輪に自分も入りたいという気持ちが出てくる。ただ、会社としては、すべての選手の希望をかなえることはできない。そうすると長州が自分に反旗を翻した時と同じように“強行突破するしかない”と考える選手が出てくる。藤原はあれだけの技術を持っていた。それなのに注目もされず面白くないと思っていた。どこかで自分もスポットライトを浴びるタイミングをはかっていた。そんな思いをくみ取った猪木さんなのか誰なのか分からないけど、“お前、どうする”と藤原に託した。あとは、本人がその気になるか。その気になった時にいつ行動するかということだった思う。その時が藤原にとって札幌だったのだろう」
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(26)長州力、新日本プロレス離脱…
2017年3月11日15時0分 スポーツ報知
長州を失い喪失感があったという藤波

雪の札幌事件で、藤波辰爾と長州力の「名勝負数え歌」は曲がり角を迎えた。長州は、テロリストとなった藤原喜明と遺恨劇を展開。藤波は、宿敵を失った。そして1984年9月。ライバルとの別れが来た。長州が自身が率いる「維新軍団」のレスラーを含む13選手と共に新日本プロレスを離脱したのだ。

「さみしさと喪失感があった。長州はこの先、新日本にいても得られるモノがないと感じていたのかもしれない。とにかく、このころの新日本は内部でコミュニケーションがまったく取れていなかった」

最大の原因は、社長のアントニオ猪木の個人事業「アントンハイセル」だった。「アントンハイセル」は、猪木がブラジルでサトウキビの搾りかすを家畜の飼料に再生することを目的にした会社。事業は軌道に乗らず莫大(ばくだい)な負債を抱えた。その穴埋めに新日本プロレスの利益がつぎ込まれたとされている。

爆発的な人気で会社は利益が上がっているはずが、レスラー、社員の待遇は改善されない。こうした状況に藤波も83年8月に取締役の山本小鉄らと「会社を立て直そう」と行動を起こした。結果、猪木は社長を退任した。しかし、クーデターと言われた事態はわずか3か月で猪木は社長に復帰した。

「クーデターとか言われているけど、そうじゃない。もっと純粋に会社を良くしようという気持ちだった。この時は、山本(小鉄)さんが現場を動かしていたけど、会社と現場がもっとコミュニケーションを取っていれば良かった。会社の中で坂口(征二)さんが大変な思いをされて、一人で右往左往するような状況だった」

長州は、自らの団体「ジャパンプロレス」を結成。年明けの85年1月から全日本プロレスへ参戦した。実はこの時、藤波も離脱することを誘われていた。

「裏でいろんなところから誘いの手があった。条件は提示されなかったが、それと同等のことは言われた。レスラーは、誰しもいつかは一国一城の主になって旗を振りたいという気持ちは持っている。それは自分もそうだし、ある部分で新日本を出て行ってトップになった長州をうらやましく思ったこともある。ただ、自分の場合は最終的に自分の中にある新日本プロレスを旗揚げした時の気持ちを捨てることができなかった。それがあったから、新日本を出るという決断までいかなかった。これは、自分で言うのも変だけど、自分が残って新日本は良かったと思う。坂口さんの存在も大きかった。自分と坂口さんが辞めていたら、その後の新日本は成り立っていかなかったと思う」

長州は、87年5月から再び新日本に復帰するが、両雄の熱い戦いは、長州の反乱から離脱までの2年間が最も熱かった。今年は、あの後楽園ホールでの反乱劇から35年。今、振り返る名勝負数え歌とは。

「長州の自分へのジェラシー、それに対抗した自分の感情とお互いにガチな思いをぶつけあった。日本人は、リアリティーを求める。そこにファンは共感したのだと思う。長州とは彼が入門してから交流はなかったし、会話することもなかった。それでも、あれだけの試合ができたのは、我々にはプロレス感が共通しているものがあった。それがなかったら素人のケンカになってしまう。プロレスへの考えが通じ合っていたからこそ、プロとしてお互いがいいものを出し合えた。あのころは、プロレスがスポーツ全体の中でも高い地位にあった。総合格闘技もなかったし、そういうものが入っていく余地がなかった」。

宿命のライバルが消えた翌85年、藤波は、まさかのマイクパフォーマンスをやってしまう。(敬称
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(27)「お前、平田だろ!」の真相
2017年3月12日15時0分 スポーツ報知
マシン1号だった平田

1985年。長州力らが大量離脱した新日本プロレスは、人気が低迷した。リング上の話題は、全日本プロレスから引き抜いたブルーザ・ブロディの参戦に加え、新日本正規軍と覆面レスラーのストロング・マシン軍団との抗争を軸にした展開だったが長州ら維新軍団との因縁のように会場もテレビ視聴率もヒートアップすることはなかった。

この年、31歳だった藤波辰爾は、禁断のマイクパフォーマンスを実行してしまう。5月17日、熊本県立総合体育館。マイク・シャープを破った後のリング上だった。マシン軍団のマネジャーだったワカマツが乱入し藤波を挑発。そこへマシン1号がリングに入り、ワカマツを場外に落とし藤波へ対戦を迫った。マイクを持った藤波は、突如、こう叫んだのだ。

「お前、平田だろ!」

マシン1号の正体は、新日本プロレスの若手でカナダで海外武者修行を行っていた平田淳嗣だった。平田は、前年の84年8月に帰国し覆面レスラーのマシン1号としてリングで暴れていた。もちろん、すべてのレスラー、会社はその正体は知っている。ただ、覆面レスラーを売り出す基本は「正体不明」。マスクマンの正体の暴露は、よほどの例外を除いてタブーだ。それを、観客がいるリング上、しかもテレビ生中継の試合で藤波は、やってしまった。なぜ、「お前、平田だろ」と叫んでしまったのか。

「あの時は、試合が終わってワカマツが入って来て、マシンがリングに上がってきた。リング上がエキサイトして、ファンサービスをするつもりじゃないんだけどその中で自分がマイクを取ったのか拾ったのかは覚えていないんだけど、マイクを持った。そうしたら、アドリブが効かないんだよね。最初、しゃべることは、ワカマツに投げかけようと思ったんだけど、その言葉が出てこなくて、目の前にマシンがいたから“マシン”って言わなきゃいけないところを、その“マシン”が出てこなくて、中身が見えちゃった。そしたら“平田!”って言ってしまった。本来は、言っちゃいけないことで、マシンと言わなくちゃいけないところを中身が先に頭に浮かんでしまったんだよね(笑い)。別に受け狙いでも何でもなかった。言った後は“まずいなぁ、やっちゃったなぁ”って思った」

控室に戻ると、生中継していたテレビ朝日のプロデューサーが「あれは、まずいだろ!あれは、ないよ」と慌てて控室に飛んで来たという。それに対して「もう、言っちゃたものだから、しょうがないよ」と腹をくくったという。

「そうしたら、翌日から行くところ、行く会場でマシンが出てくると平田コール。あれには、参ったねぇ(笑い)」

禁断のマイクの被害者となった平田からは、直接的な抗議はなかったという。プロレス史に残る「お前、平田だろ」のマイクパフォーマンスを残した85年。12月に大きな動きがあった。新日本を離脱していた前田日明、藤原喜明、木戸修、高田延彦、山崎一夫のUWF勢が12月6日、両国国技館に登場。翌86年から新日本への参戦が決定したのだ。藤波は前田との戦いに挑むことになる。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(28)前田日明との激闘 1986年6月12日、大阪城ホール
2017年3月13日15時0分 スポーツ報知
1986年にUWF軍として新日本に参戦した藤原(左)と前田

1986年6月12日。32歳の藤波辰爾は、大阪城ホールで前田日明との一騎打ちに臨んだ。

「前田とは嫌だった。自分だけでなく、あの当時はみんな選手が前田に触りたくなかった」

前田はUWFのエースだった。UWFは84年4月に旗揚げしたが、その経緯は複雑だった。前年の83年に新日本を退社に追い込まれ営業本部長だった新間寿がテレビ局を抱き込んで設立を目指していた新団体がUWFだった。アントニオ猪木も参加する予定で自らが合流する前に先兵部隊として前田、ラッシャー木村らを送り込んでいた。しかし、猪木は土壇場でUWFへの参加を翻し新日本に残留した。

それでも前田はUWFにとどまった。途中から元タイガーマスクの佐山聡がスーパータイガーとして参戦し従来のプロレスとは一線を画しロープワークは使わず関節技とキックを主体としたスタイルを打ち出していた。ただ、興行は苦戦し団体は1年半あまりで事実上、活動を停止した。そこへ長州力ら大量離脱後も低迷が続いていた新日本が人気回復を目指しUWFと提携し、この年からUWF軍団として参戦していた。ただ、藤波は、UWFのスタイルに温度差を感じていた。

「UWFは色んないきさつがあって団体を興して、自分たちのスタイルを作った。だけど、運営上、無理で新日本がUWFを事実上、吸収合併した。でも、リング上では彼らも意地がある。だから、ファンに吸収合併されたと捉えられたくなくて自分たちのやりたいことはリング上で貫くぞって来ていた」

長州力との戦いのようにお互いが持っている技を真っ正面から出し切り受け止めるプロレスが理想のスタイルだった。そこにはリングでの信頼関係が不可欠。それは、新日本プロレスの形でもあった。

「本来、プロレスは、お互いに通じ合うものがある。しかし、UWFの彼らは、従来のプロレスを壊そうと来ているわけだからだから、すり合うことがなかった。始めからスタンスが違う。今の総合格闘技のはしりみたいに関節技、打撃技を思うがままにやってくる。そのスタイルを曲げなかったから当時の新日本の中では誰も触りたくなかった。プロレスが合わない。彼らが参戦してから試合がかみ合わない状況がずっと続いていた」

迎えた5月。毎年、恒例のリーグ戦でチャンピオンを決めるIWGPチャンピオンシリーズが始まった。シリーズ前のマッチメイク会議は紛糾したという。

「会議では“リーグ戦だから前田がエントリーしないとおかしいだろう”という意見で一致した。“じゃぁ、前田と誰が相手するのか”となった時に、営業的な部分では万が一、試合中に何か起きたら大変なことになるから親分の猪木さんには触らせたくないとなった。かつての日本プロレスで馬場さんと猪木さんがやらなかったのと同じような感じだった。だったら“じゃぁ自分が行きましょうか”と手を上げた。自分から手を上げる必要もなかったとは思うけど、誰かが前田とやらないと仕方がない。新日本のイメージとか興行的な部分を真剣に考えて、自分が行くしかないと判断した」

試合は、藤波の予想を上回る壮絶な戦いとなった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(29)戦いを通じて分かった前田日明が背負っていたもの
2017年3月14日15時0分 スポーツ報知

藤波と激闘を展開した前田日明

32歳の藤波辰爾は、プロレスへの考えが違うUWFの前田日明との対戦に挑んだ。

86年5月に開幕したIWGPチャンピオンシリーズ。リーグ戦で優勝者を決める恒例の大会だったが、新日本プロレスは、アントニオ猪木と前田の対戦を避けるため、前年まで全選手総当たりだったリーグ戦を2つのブロックに分け、各ブロックの最高得点者が決勝戦を行う形式となった。猪木と前田は別ブロック。藤波が前田と同じブロックに入った。

「自分としては、現実として前田のUWFが新日本に上がっているから、どこかで受け入れなくては新日本がリング上で成り立っていかなくなると思った。そんな責任感とある部分、不安を抱えながらあの試合には挑んだ」

迎えた6月12日、大阪城ホール。試合は壮絶だった。前田のキックを体だけでなく顔面で藤波は受けた。クライマックスが来た。コーナーに押し込んだ藤波の顔面に前田は大車輪キックを浴びせた。右のこめかみからおびただしい血が流れた。試合は両者KOで終わった。

「今もあの時の傷は残っている。彼は既存のプロレスを壊そうと来ていた。一歩間違えたらいつレスラー生命が終わってもいいような試合だった。前田も後からインタビューで言っていた“蹴っても蹴っても立ってくるからどうしようかと思った“と、それぐらい危険な試合だった。ただ、ファンの反応を見て試合をして正解だったと思う。今もあれぐらいお客さんが手に汗握るというかヒヤヒヤする試合はないと思う」

試合後、大流血に追い込んだ前田へ新日本の控室は殺気立っていたという。

「控室では、自分への同情と前田への怒りからいきり立っていた選手がいた。そんな選手には“いいよ、いいよ騒ぐ問題じゃないよ”となだめた。自分も前田に何かを言うとか抗議することは一切、しなかった」

藤波の複雑な思いとは裏腹に、ファンはこの一戦を名勝負と絶賛。プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。評価を上げたのは蹴りまくった前田よりも受けまくった藤波だった。「受けの美学」と評され、改めてプロレスラーとしての高い能力が再認識された。

ただ、その後、両者の一騎打ちは実現しなかった。前田は、翌年の87年11月に6人タッグマッチで長州の顔面を蹴ったことが引き金となり新日本と契約を解除される。その後、新生UWFを設立し爆発的な人気を得た。改めて、あの時の前田日明をどう見ていたのだろうか。

「長州の顔面を蹴った時は、いずれこういうことが起きるなとは思っていた。UWFでも高田(延彦)、山崎(一夫)、木戸(修)さん、藤原(喜明)は、格闘技の経験がなく新日本に入った純な人間だったから、UWFに入っても新日本の選手とリング上で溶け合ったが、前田だけが溶けきれなかった。前田は、いろんないきさつの中で猪木さんからひとつの時代を託されてUWFを作った。その中には猪木さんの中の夢でもあった総合格闘技的なプロレスを作りたいっていう部分も託されていたのだと思う。同時に前田自身もレスラーになる前に空手をやっていたように格闘技の世界からプロレスに来ているから総合格闘技的なプロレスをやりたいっていうのは彼の夢でもあったのでしょう。彼は彼なりに考えて、そういうUWFという存在を守りたいっていう一心でやっていたと思う」
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(30)両国大暴動…屈辱のタッグマッチ 1987年12月27日
2017年3月15日15時0分 スポーツ報知
猪木と対戦するベイダー(左)

UWFの前田日明が長州力の顔面を蹴った1987年暮れ。33歳の藤波辰爾は、屈辱の試合を強いられる。

12月27日、両国国技館。「イヤー・エンド・イン国技館」と銘打たれた特別興行で木村健吾と組んで、ビッグバン・ベイダー、マサ斎藤組と戦う予定だった。メインイベントは、アントニオ猪木と長州力の一騎打ちだった。85年1月から全日本プロレスに参戦していた長州。87年5月に新日本へ復帰後、初の猪木とのシングルマッチとあって館内は超満員札止めでファンの期待はふくらんでいた。

一方で新日本プロレスの低迷は深刻だった。長州らが復帰しても興行は上昇カーブを描くことはなかった。従来の軍団抗争から猪木と藤波、長州らが対抗する世代抗争に新たな基軸を求めたが10月に猪木がマサ斎藤と巌流島で戦う独自色を出し、いつの間にか世代抗争は消えてしまった。

そして、長州を蹴った前田を出場停止にしたことでファンの反発を買った。逆に前田は「格闘王」としてカリスマになろうとしていた。テレビ視聴率も低迷していた。73年から続いていた金曜8時の中継が86年9月で終了し月曜8時に移動していた。一時は「ギブUPまで待てない!」との副題を付けバラエティ色を取り入れた火曜8時に移った時もあった。ただ、このゴールデンタイム中継も常に打ち切りの危機に立たされていた。新たなテコ入れ策が必要な時期がちょうどこの頃だった。

そこに、タレントのビートたけしが東京スポーツと自身のラジオ番組「オールナイトニッポン」でプロレス界進出のキャンペーンを展開し「たけしプロレス軍団(TPG)」を結成。新日本もこの企画に乗った。TPGが送り込んだ猪木への刺客という触れ込みで初来日したレスラーがベイダーだった。もともとは、アメリカンフットボールでスーパーボウルにも出場したアスリート。ひざのケガで引退に追い込まれ、プロレスラーに転身して間もないころに米国でマサ斎藤にスカウトされ新日本への参戦が決まった。

藤波、木村組と対戦する斎藤とベイダーのセコンドには、ビートたけし、弟子のガダルカナル・タカ、ダンカンらたけし軍団も登場。タカがマイクを持って猪木に一騎打ちを迫ると猪木がリングに入り、長州戦をやめて、ベイダーとの一騎打ちを受諾してしまった。「どうですか!」と観客に同意を求めるが、大ブーイング。それでも猪木は長州戦を中止しベイダーとのシングルへの変更を決断。この余波で長州がベイダーと変わり、斎藤と組んで藤波、木村組と戦うことになった。これに観客はさらに激怒。タッグマッチの試合中にすさまじい「やめろ」コールが渦巻き、リングの四方から物が投げ込まれた。

「あの時は、自分と長州が対戦しているのに、物が投げられ、握り飯まで飛んで来た。一時は新日本でドル箱だった長州との戦いが、ここまで汚された。米粒が体に付いて試合をした情けなさと屈辱は忘れられない。ベイダーとは屈辱から始まったね」。

屈辱のタッグマッチは、5分足らずで終了。罵声が飛び交う館内で長州がマイクを持ち、猪木戦の実現を約束した。猪木も観客の怒りは想定外だったのだろう。長州との一騎打ちも決行。異例の長州、ベイダーとのシングル2連戦を行うことで観客の不満を抑えようとしたのだ。しかし、長州戦は馳浩の乱入で反則勝ち、ベイダー戦はわずか2分あまりであっけなく負けてしまい逆に観客の怒りは爆発した。国技館のイスを壊し、貴賓席さえも破壊する暴動が起きた。

「猪木さんも体調が元気だったら、やれたかもしれない。あの時はもう試合をこなすのが精いっぱいの状況だった。その一方で自分の新しい宿敵としてこれからベイダーを作っていかないといけないという責任もあった」

新日本プロレスは、国技館を所有する日本相撲協会から「無期限の国技館使用禁止」を通達された。結局、1年あまり国技館での興行は禁止された。観客席の破壊など「7、800万円ぐらい弁償した」という。屈辱だけが残ったベイダーの初参戦。藤波の中にたまった鬱憤(うっぷん)が翌年に爆発する。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(31)飛龍革命 1988年4月22日、沖縄・奥武山体育館
2017年3月16日15時0分 スポーツ報知
猪木(右)と藤波

1987年12月27日、両国国技館で暴動が起きたビッグバン・ベイダーの初登場。年が明けた88年からベイダーは、新日本プロレスの外国人エースとなった。

ただ、迎え撃つのは、これまでと変わらずアントニオ猪木だった。この年の3月いっぱいでテレビ朝日の中継もゴールデンタイムでの放送が打ち切られ、土曜の夕方からの放送となった。放映権料は減り団体の利益は悪化した。こうした危機に立たされても「エースは猪木」だった。この変わらない図式に34歳の藤波辰爾は、やり場のない鬱憤(うっぷん)がたまっていた。

迎えた4月22日、沖縄・那覇市の奥武山体育館。藤波の積もりに積もっていた思いが爆発した。猪木と組んでベイダー、マサ斎藤組との試合後の控室。猪木は、このシリーズの終盤戦の大阪と有明でベイダーとシングル2連戦を組んでいた。いつまでもメインイベンターの座を譲らない師匠へ怒りをぶつけた。

藤波「2連戦は無理ですよ。もう何年続くんですか。何年これが」

猪木「だったら破れよ。何で俺にやらすんだ」

藤波「だったら、やりますよ、俺が」

猪木「遠慮することはないって。リング上は闘いなんだからよ。先輩も後輩もない。遠慮されたら困る。何で遠慮するんだ」

藤波「これは新日本プロレスの流れじゃないですか」

猪木「じゃ、力でやれ、力で」

藤波「やります」

猪木「やれるのか、おい」 猪木が張り手を浴びせた。間髪いれずに張り手を返した藤波。次の瞬間、藤波は救急箱からハサミを取り出し涙を浮かべ前髪を切り始めた。

藤波「やりますよ。やりますよ」

猪木「待て待て」

藤波「いらないですよ。こんなもの。こんなんなってもお客さんを呼びますから。オレ負けても平気ですよ。負けても本望ですよ」

猪木「やれや、そんなら」

藤波「やります。手出さないで下さいよ」

猪木「オッケイ。オレは何ももう言わんぞ」

藤波が初めて面と向かって師匠に反旗を翻す飛龍革命だった。

「あの時はたまったものが爆発した。“もういいや”ってカーッとなった。猪木さんもハイセルとか個人的な問題を抱えながらシリーズに参加しないといけない大変な時期だった。それでも会社の営業としては、猪木さんは外せないから、ベイダーを猪木さんの好敵手として作っていこうと、猪木さんは常にベイダーを相手にしないといけなかった。それは、どう見ても猪木さんの負担になっていた。反対に長州と自分の戦いは、両国で水を差されて看板にならなくなっていた。そういう状況で自分のイライラ感が積もっていった。今、思えば猪木さんの負担を少なくしようと思うんだったら、猪木さんに牙をむく必要はなかったかもしれない。でも、一番、華のある人に食いついていけば一番、分かりやすいし、周りが騒ぐ。そこは自分の中で培われたレスラーとしての嗅覚だった。マッチメイクは坂口(征二)さんだったが、坂口さんにかみついたところで事務的に処理されて事が大きくならない。もちろん、かみつくことは猪木さんに事前に話をしていないし、自分の衝動的な行動だった。今にして思えば猪木さんからしてみれば、いい迷惑だったのかもしれない」

猪木への反旗と同時に自らへのジレンマもあった。

「自分に対しての歯がゆさもあった。“こういうこともやりたい。あれもやりたい”と頭の中で考えてずっと自問自答していたんだけど、行動できなかった。自分が考えているように会社が動いていかなかった。興行的にもキツイ時代だった。すべてが猪木さんにしわ寄せが行くのではなくて、自分も長州もいた。“自分もいるのに”という思いがあった。それが、あういう行動になった」

なぜ、ハサミで前髪を切ったのか。

「なんで、ハサミで髪の毛を切ったのかは、自分でもまったくわかんない。子供がおもちゃをねだってお母さんが買ってくれない時に駄々をこねるじゃないないですか。あういう感じで自分で何かしないと真剣に訴えていることが聞き入れてくれないと思った。やけになって、たまたま、救急箱があって、蹴飛ばしたらちょうどフタが開いてハサミが見えた。ハサミを持った時、猪木さんは、静まり返った。髪の毛を切って何のアピールになったのか。今、思えば漫才のネタにされている笑い話だけどね」

その後、猪木はケガで欠場。大阪と有明で猪木が予定していたベイダーとの一騎打ちは藤波が行った。今、振り返る飛龍革命とは。

「旗揚げから一貫して新日本の中で自分は成長してきた。ただ、周りを見ると、前田がUWF、長州も全日本へ行くなどそれぞれが己を主張して団体興し行動していた。彼らとは、自分は新日本でのスタートが違う。常に新日本と一緒に死んでもいいと思っていた。だけど一人のレスラーとして長州、前田の行動を見ていて自分へのイライラ感があった。それを、あの時はあういう形でしか表現できなかった」

猪木を越えようともがいた飛龍革命。袂を分けた師弟は、4か月後に伝説の試合を産む。
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(32)伝説の師弟対決 1988年8月8日、横浜文化体育館
2017年3月17日15時0分 スポーツ報知
藤波と60分フルタイムの熱闘を展開した猪木

沖縄の飛龍革命から4か月。1988年8月8日、横浜文化体育館で藤波辰爾は、アントニオ猪木との一騎打ちに挑んだ。

「あの試合は自分にとってこれは宝。今まで猪木さんの中に飛び込んで行けなかった。それが、やっと猪木さんに自分らしさをぶつけられた試合だった」

猪木とは、85年12月12日、宮城県スポーツセンターで行われたIWGPタッグリーグ戦の優勝戦でドラゴンスープレックスでフォール勝ちしたことはあったが、シングルマッチでは6度、戦いすべて敗れていた。この試合は、藤波が持つIWGPヘビー級王座に挑戦者決定戦を勝ち抜いた猪木が挑戦するという展開でマッチメイクされた。背景には、中継するテレビ朝日がゴールデンタイムの特別番組での中継を用意していたことがあった。

「新日本からすれば放映権料も入ってくるから特番は欲しい。だけど、特番やるだけの目玉になるカードがない。これまでもそうだったんだけど、猪木さんと自分がやらなきゃいけない時は新日本が危機的な状況に立った時だった。言ってみれば困った時の猪木・藤波戦。この時もそうだった」

前回の対戦となった85年9月19日の東京体育館での一騎打ちも長州力らの大量離脱で観客を動員できるカードがなくなった末の師弟対決だった。ただ、弟子である自分に挑戦する図式を猪木は拒否すると考えていたという。

「猪木さんは、このカードを絶対に飲まないと思っていた。坂口(征二)さんとか何人かと会社で話をした時も“試合を組んでもオレとやることを猪木さんは受けないと思います”と話した。ましてや選手権試合で自分がベルトを持っているわけだから、そんな中で“猪木さんが上がってくるわけないよ”と言った。それを猪木さんは受けてくれた。実際に引退(98年4月)したのは、まだ先だけど、もしかしたら、この時、実質的に自分が動ける最後の試合だと思ったのかもしれない。そこに照準を絞ったのかもしれない」

真夏の大一番。試合前は体調管理にいつも以上に気を配った。

「暑いさなかだったからコンディションを上げようと、女房と相談して食事制限をした。特製ジュースを作ってもらってね。レモンにはちみつ、梅肉エキスを加えたドリンクを飲んでいた」

試合は、60分1本勝負。ゴングが鳴った。時間が進むごとに藤波は驚きの連続だったという。

「あの時の猪木さんはすごいコンディションが良かった。自分は34歳で猪木さんは45歳。ましてや、自分はシリーズをやっていて動けて当たり前。猪木さんは、単発でしか試合をしていなかった。ところが、時間が経つにつれて猪木さんのコンディションが上がってくる。あの時は、さすがだなと思った。試合までは、そりゃ周りからも自分自身も“猪木さんから一本取っておきたいな”という思いはあった。でも、戦っているうちにそういう勝敗は全部、どっか行った」

絶妙なハーモニーを奏でるように2人の技は、リングで溶け合った。瞬く間に60分フルタイムのゴングが鳴った。

「プロレスが60分間、絡み合うというのは絶対にあり得ない。ただ、あの時は、自分が猪木さんに引き込まれていた。16歳から猪木さんをずっとそばで見ていたから、猪木さんの動きが頭の中で録画されている。息づかいから一挙手一投足で次に何をやろうとしているのかといった動きが全部、見える。延髄斬り、卍固め、パンチ、インディンアン・デスロック…次に猪木さんは、どういうことを狙っているのかもすべて分かる。そうすると、猪木さんに引き込まれるように自然と技を受ける態勢に入っていた」

常識では考えられない60分フルタイムの名勝負。試合後、感動した長州力が猪木を肩車した。藤波は越中詩郎に肩車され、両者は涙を流し抱き合った。超満員のファンからは大きな拍手が注がれた。これが猪木との最後の一騎打ちとなった。

「自分にとっても大きな賭けの試合だった。応援してくれるファンもちょうどいい時期だった。猪木さんをずっと見てきているファン。自分をずっと見てきているファン。新日本をずっと見てきているファン。そのすべての思いが総決算のように重なり合った試合だった」

宝物となった猪木戦。新日本のエースとなった藤波を待ち受けていたのは残酷な戦いだった。
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(33)椎間板ヘルニアが発覚 長期欠場へ
2017年3月18日15時0分 スポーツ報知
1989年に悪夢の長期欠場を強いられた藤波

アントニオ猪木との伝説の60分フルタイムを残した藤波辰爾は、IWGP王座の防衛を重ね名実共に新日本プロレスのエースとなった。

1989年4月24日、新日本は、プロレス界で初の東京ドームでの興行を開催。6月には参院選に出馬する猪木が社長を辞任し坂口征二が会社のトップに就任し、新たな時代を迎えていた。ライバルの長州力がマッチメイカーとなり、35歳の藤波は、長州と両輪となってリングを引っ張る立場になった。そんな時、悪夢が起きた。

6月22日、長野県佐久市総合体育館。メインイベントでビッグバン・ベイダーと対戦。強烈なバックドロップで腰を痛打し動けなくなった。何とか試合はクリアしたが、両肩を抱えられて控室に戻った。長年、違和感があった腰の痛みが爆発した。

「あのベイダー戦の2、3年前、前田(日明)とやっているころからから朝起きると腰が痛くて起きれないとか、試合前の準備運動でも違和感がずっとあった」

痛みを抱えながらも病院で検査はしなかった。

「プロレスラーである自分の体に対して自信過剰だった。まだ、若かったし、試合が毎日あるから、疲れも痛みも麻痺して、これぐらいの痛みは当たり前でシリーズが終わって休めば治るぐらいに思っていた。また、当時は今のように巡業にトレーナーが帯同していなくて選手個人個人が自分の体をケアしなくてはいけない状況だった。自分もリングに上がる前に付け人に腰を踏んでもらったり、マッサージしてもらったり、湿布したりして対応していたんだけど、今から思えばそれではしょせん、付け焼き刃みたいなものだった。これは、後悔先に立たずなんだけど、検査しておけば良かったという後悔はある」

かかりつけの治療院では「完全に休まないと体はもたない」と警告されていた。しかし、当時は、年間の試合数は220以上で多い年は250の超ハードスケジュール。加えて人気レスラーの藤波は、テレビ朝日との契約で「ジュニアのころから、シリーズ終わると海外での番組を撮らないといけなかった。ニューヨーク、カナダ、メキシコとオフも海外に行って休む時間がなかった」。デビューから17年。激戦の蓄積に腰が悲鳴をあげたのだ。

ただ、信じられないことに藤波は、ベイダー戦後も10試合の地方巡業に出場していた。

「尋常じゃない痛みだったが、そこまでひどいケガだという自覚がなかった。検査しないといけないと思いながらも次の日、またリングに上がっていた」

裏側には当時の新日本が抱える事情もあった。

「運悪くと言ってはあれだけど、ちょうど猪木さんが参議院選挙に立候補した時で、自分が休むと看板が2人いなくなることになってしまう。あのころの新日本はほとんどが売り興行で、プロモーターとの契約もあって猪木さんが休んでいる状況で自分が休むことはできなかった」

参院選出馬で欠場した猪木。そこに藤波まで休めプロモーターへの信用に関わる。自らのケガよりも団体を背負う責任感からリングに上がったのだ。

「ベイダー戦から1週間ぐらい試合をやったけど、とうとう、腰がにっちもさっちもいかなくなった。ほとんど歩くこともできなくなって、いよいよリングに上がれなくなった。あの後、新日本は各地のプロモーターから興行代金を値引きされたと思う。猪木さんと自分がそろって出場する代金で設定していたわけだから」

7月4日の青森・五所川原市体育館での試合を最後に欠場した。ようやく都内の病院で検査。診断結果は椎間板ヘルニアだった。地獄の日々の始まりだった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(34)過酷なヘルニアとの戦い…眠ることもできなかった5か月間
2017年3月19日15時0分 スポーツ報知
過酷なヘルニアとの戦いを強いられた藤波

椎間板ヘルニアと診断された35歳の藤波辰爾。89年7月4日の青森・五所川原市体育館での試合を最後に長期欠場に入った。

椎間板ヘルニアは、椎間板の中にある髄核が飛び出して神経を圧迫するケガ。病院でレントゲンとMRI検査を受け、画像を見ると驚いた。

「写真を見たら素人でも分かるほど、腰椎の4番目か5番目か髄核が完全に飛び出て神経が曲がっていた。髄核の飛び出ている量も半端なかった」

医師からは手術も勧められた。

「髄核が当たっているから“処置しなくてはいけません”って言われたけど、手術だけはしたくなかった。腰にメスを入れれば、現役続行は無理だろうと思った。手術しない方法でリングにカムバックできないかと考えた」

いい治療法があると聞けば全国どこへでも飛んだ。

「鹿児島、大分、福岡、広島、大阪…。治療も針、整体、遠隔療法、気功…ありとあらゆるものをやった」

ただ、回復には結びつかなかった。

「それぞれ、みなさんすごい熱意を込めて治療していただいた。でも、今から思うのは、ヘルニアの痛みが出た時は、力を入れて熱心にやってもらえばもらうほど傷口が広がってしまっていた。それは素人の考えで逆効果だった。切り傷の傷口を叩いているようなもので血が止まるわけがない。刺激を与えれば髄核が引っ込むどころかもっと炎症を起こしてしまっていた。そのことが何か月かいろんな治療をしていて自分で分かってきた。“かえって何もしない方がいいのか”と思って、治療するなら、局部を引っ張らないとかねじらないとか、遠隔療法といって爪先を刺激するとか触らないことが一番だと思った。病院に行って医師に“炎症を起こして治療しているんだけど”と相談すると“それは、やめた方がいい”と言われた。自分が考えていることと、医師が言うことが同じだったから治療をやめることにした」

何もしない保存療法に切り替えたのは、欠場から半年後だった。

「この頃が最悪だった。家からも出られない。腰に水がたまって水枕を背負っているみたいでやわらかい。医師からは炎症が引くまで水は抜かない方がいいと言われた。その時は、あおむけにも寝られない、うつぶせにも寝られない、横向けにも寝られない状態で態勢が動かせなかった。楽な姿勢がなかった。これはきつかった。女房はずっと家にいて自分に付きっきりだった。まさに藤波家の地獄だった」

1日中、リビングのソファで横たわっていた。

「寝室のベッドに行けないから、トイレに一番近いリビングのソファの角にもたれて、痛みで意識がもうろうとしながら毛布をかぶっていた。トイレも大仕事だった。痛みで満足に寝られない。朝になると“また24時間この痛みが続くのか”と考えた。この生活が5か月間、続いた」

休んでいる間の90年3月には、旗揚げ間もない新日本を救ってくれた坂口征二が社長業に専念するために引退した。地獄の日々だったが藤波に引退がよぎることはなかった。

「やっぱりプロレスが好きだった。引退は考えていなかったし、したくなかった。それと当時は娘がまだ小さくて女房が娘に付きっきりでいないといけない状況なのに、献身的に自分を支えてくれた。娘を車に乗せて自分を病院に連れて行ってくれたりとか、そういう姿を見ると家族のためにもリングに戻らないといけないと思った」

欠場から1年後の90年夏。保存療法の効果が出てきた。

「じょじょに炎症も引いてきて、痛みの度合いも楽になってきた。そうなった時にスポーツ医療のトレーナーのところに行って“背骨を真ん中にして腹筋、背筋を鍛えてバランスを保っていないとどっちかに引っ張られるから良くない”と言われて痛くない程度に運動療法を始めた」

復帰は、独断で決めた。

「医師から言わせれば復帰はなかった。医師の目から見れば、欠場したあの時点でレスラー生命は終わっていた。医師は復帰について“何とも言えません”と言った。だから、自分自身の判断で治療を続けることよりも復帰へ気持ちを切り替えた」

ドクターストップを振り切った復帰戦は、1990年9月30日、横浜アリーナ。36歳の藤波辰爾は、453日ぶりにリングに立った。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(35)453日ぶりの復帰 奮い立たされた長州力からの激励
2017年3月20日15時0分 スポーツ報知
胆石の手術後に除去した石を公開する藤波

椎間板ヘルニアで地獄を見た藤波辰爾にとって453日ぶりの復帰戦。医師からのストップを振り切り1990年9月30日、横浜アリーナで越中詩郎と5分1本勝負のエキシビションマッチに挑んだ。リングに上がる2日前、病院で腰のレントゲンを撮った。

「手術して処置していないからヘルニアは引っ込んでいなかった。多少、炎症が引いているぐらいだった。復帰した横浜アリーナの控室には、何が起こっても対応できるように病院の先生が待機していた」

痛みが爆発する危険を伴った5分間の復帰戦だった。この日の興行はアントニオ猪木のレスラー生活30周年を記念する大会だった。師匠の記念日でのリング。さらに超満員のファンからのドラゴンコールに胸が熱くなった。

「ヘルニアは治っていなかったけど、リングに上がって自分としては“いいところに戻ってきた”と感じた。それと、何より支えてくれた女房がほっとしていたと思う」

横浜アリーナから1か月後の10月25日、群馬・前橋グリーンドームで本格的な復帰戦を行った。試合は、越中と組んで宿命のライバル、長州力とアニマル浜口と戦った。この試合を機に試合数を増やし年末のシリーズはフル参戦した。

「ヘルニアを抱えているわけだから、復帰してからは、ずっとリングに上がる時は痛み止めの座薬を使っていた。痛みは完全に取れないけど、座薬は一番、早く効くしある程度の動きができるようになる。本来は、あまりやっちゃいけないことだったかもしれない。ただ、使った量はすごいだろうね」

ヘルニアを治したのは脊柱管狭窄(きょうさく)症の手術を行った2年前の2015年9月。89年7月の長期欠場からこの時まで26年間もヘルニアを抱えながら座薬で痛みを抑えて試合を行っていたのだ。「プロレスが好き」という情熱の賜物だろう。一方で当時は、ヘルニアだけではなく胆石も抱えていた。

「手術をすれば、良かったかもしれないけど、あのころは、とにかくメスを入れることにこだわっていた。当時は開腹するしか手術の方法はなかったから、おなかを切って後が残ってしまうのを避けたかった。ただ、痛みはきつかった。前触れがあって“あぁこれは胆石の痛みだな”と分かる。試合でも痛みが来るなと分かる。発作が来ると体が硬直して動けなくなる。巡業先でも発作が来ると会場に最寄りの病院へ行って痛み止めを打ってもらった。今となってはバカなことをしたなと思うけど、その時はそれが最善だと思っていた」

胆石は最初の発見から13年を経た2004年1月に腹腔鏡手術で胆のうを全摘出した。

「あれだけ悩まされていた胆石だったけど、内視鏡で取ったらこんなに簡単にできるのかと思った」

ケガと病気と戦いながらの復帰だったが、リング上では最前線のメインイベントに戻った。体調を考えれば、もっと楽な立場で試合を続けることも選択肢にはあったかもしれない。それをさせなかったのが、マッチメイカーを務めていた長州だった。

「長州は現場監督として自分の気性を分かっていた。あの時、彼から“もっと楽な試合を組んでおいたよ”とか“下のところで試合をしたら”と言われたら、自分のプライドが許さなかったと思う。そういう試合を長州はさせなかった」

宿命のライバルは、体を張って藤波のプライドを奮い立たせた。復帰からわずか3か月の12月26日、静岡・浜松アリーナで長州は、自身が持つIWGPヘビー級王座に藤波が挑戦するタイトルマッチを組んだ。2年半ぶりの一騎打ちは藤波が勝利。王座を返上した89年4月以来、1年8か月ぶりのベルト奪還で名実共に新日本のど真ん中に戻った。

「これは、今だから言えることだけど、長州も“今、第一線にいられるのは、あの後楽園でのわがままを藤波が受け止めてくれたから”という気持ちがあったと思う。それとレスラーとして張り合う相手がいなければ、いけないという部分もあったと思う。だからこそ、長州は変な試合を自分にやらせたくなかったと思う」

長州は、さらに藤波に大舞台を与えた。91年3月21日、東京ドーム。メインイベントでリック・フレアーとのIWGPとNWA世界ヘビー級のダブルタイトル戦を組んだ。藤波は、勝利した。

「長州は、ドームでのフレアー戦とか大きな試合の時に“辰つぁんいけるか。腰大丈夫いける”って聞いてくれた。こっちも目玉の試合だから長州が望んでいることが分かる。そこは、あうんの呼吸だった。こういう試合に挑むことで気持ちは上向いていった」

長州と藤波。両雄が君臨していたこの時、次世代の3人が台頭してきた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(36)武藤、蝶野、橋本…闘魂三銃士の台頭
2017年3月21日15時0分 スポーツ報知
闘魂三銃士の蝶野、武藤、橋本(左から)

1990年代に入ると新日本プロレスに新しい波が押し寄せていた。武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也。闘魂三銃士の台頭だ。3人は1984年4月に入門したライバル。そろって海外武者修行を経験し相次いで凱旋帰国した90年から藤波辰爾、長州力の次を担うスターとしてリング上で輝き始めていた。

「三銃士が入門したころは、粒のそろった新人が入ってきたな、ぐらいでそれほどの印象はない。やはり、自分の中で残っているのは海外へ出て帰って来てからになる。3人とも道場で鍛えられてきたから芯はしっかり通っていた。彼ら3人は常にお互いをどこかで意識していた。それは自分と長州の関係に似ていた。相手と違う部分を自分は光らせようとしていた。3人とも常に他の2人より自分が抜けだそうとしていたと思う」

三銃士の中で初めて藤波が持つIWGP王座に挑戦したのは、蝶野正洋だった。1991年5月31日、大阪城ホール。37歳で迎えたレスラー生活20周年の記念興行で蝶野の挑戦を受けた。

「蝶野はマイペースでどんな相手と戦っても自分のスタイルは絶対に崩さないタイプ。素材は、体も大型でいいもの持っている。自分と同じようにもともと格闘技経験ないからニュートラルで変なクセがない印象だった」

私生活でも話をすることが多かったという。

「彼は猪木さんの付け人をやっていて、巡業先なんかで飯を食いにいったりした。そんな縁で結婚式の仲人も務めた」

藤波がプロレスセンスを評価したのが武藤だった。闘魂三銃士結成前の86年10月。最初の凱旋帰国時、初戦で相手を務めた。

「あの試合で厳しく攻めたのは覚えている。武藤は3人の中で一番、キレがいい。柔道から来ているから寝技も良かった。彼も最近のインタビューで自分との試合は“勉強になった”と言っていた。あの時から武藤は食らいついてきていた」

グレート・ムタとしても日米で人気を得た武藤。IWGP王座を巡っての対戦はなかったが、プロレスへの感性は似ていることを感じていた。

「武藤は器用で懐が深い。プロレスに対する視野が広い。米国での経験があって、相手に応じて自分を出すことができる。そこはどこか自分と似ている部分。プロレスは感性が大事で、そこだけは教えることができない。その感性を武藤は持っていた」

武藤は、2002年1月に新日本を退団。三沢光晴ら大量離脱して苦しんでいた全日本へ移籍した。自分だけでなく小島聡、ケンドー・カシンの人気選手とフロントも連れて行った離脱に当時、社長だった藤波は、責任を追及されたこともあった。

「レスラーは、ある程度の立場になると、さらに自分の立ち位置を確立したくなる。新日本では、自分と長州が上にいて確立できないと武藤は考えたと思う。選手は自信が出てくると、理想と野心が生まれる。武藤はこれからを考えた時に、全日本に自分の立ち位置を確立できるイスが空いたと思ったのだろう」

社長としての憤りはなかったのだろうか。

「ないと言ったら嘘になるけど、当時はそこだけに気を取られる余裕はなかった。興行会社だから常に動いていて試合があるわけだから、そこだけに神経をとがらせるわけにはいかなかった。それと、意志を持って動く以上は引き留められないし、出て行く選手に執着することはしなかった。武藤の場合は、事前に連絡はなかったけど、出て行く意志表示ははっきりしていた。これは、社長としてではなく同じレスラーという部分で野心を持つ気持ちが分かった。それは、自分にとってうらやましくも思った」

蝶野と武藤。それ以上に濃密な時間を過ごしたのが橋本だった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(37)橋本真也さんを説得した深夜のファミレス
2017年3月22日15時0分 スポーツ報知
入場する橋本真也さんの雄姿

藤波辰爾は、橋本真也を新日本プロレスの看板を背負う男として認めていた。

「闘魂三銃士の中で猪木イズム的なものを持っていたのは、間違いなく橋本だった。新日本のストロングスタイルを彼は受け継いでいた」

エースの象徴であるIWGP王座を9度連続を含む通算20度も防衛。藤波自身も王座をかけて、あるいは挑戦者として対戦した。同じ三銃士の武藤敬司、蝶野正洋より頭ひとつ抜けた存在だった。流れが変わったのが97年4月。柔道のバルセロナ五輪銀メダリスト、小川直也のプロレス転向だった。橋本はデビュー戦の相手を務めた。3度目の対戦となった99年1月4日、東京ドーム。小川は、プロレスの枠を逸脱したセメントマッチを仕掛ける。結果は無効試合だったが実質的にはKO負けだった。以後、橋本はシリーズを欠場する。

「橋本は道場にも来ないし、何しろ自宅から出てこなかった。あの試合でプライドをズタズタに崩され、猪木さんに次ぐ破壊王という看板をいっぺんに奈落の底に落とされたわけだからね。疑心暗鬼になってリングに上がる気持ちがなかった。どうしていいか分からない状況。誰かからの言葉、話をしに来てくれるのを待つしかない状態だった」

45歳の藤波は、この年の6月24日に新日本プロレスの社長に就任する。打診は、この時より前だった。

「社長を任された以上は、橋本をリングに戻すことが最初の仕事だと思った。だけど、彼も会うのを嫌がっていた。会おうともしないし、約束しても来なかった」

粘り強く連絡を重ね、ようやく会うことになった。場所は東京・稲城市内のファミリーレストランだった。

「ちょうど稲城が自分と彼の自宅の中間だったから、そこで会った。夜中の2時ぐらいだった。お客さんはちらほらいたけど、最後の方は、ほとんどいなくなって2人だけで話をしているうちに夜が明けた」

復帰の話題はしなかったという。

「最初、彼は話しをすることすらしたがらない。ましてや、復帰という気持ちにはなっていないから、こちらが復帰の話をしても応じるとは思っていなかった。まずは、顔を合わせて気持ちをほぐすところから始めた」

ただ、あの小川戦についてプロレスラーの先輩として言うべきことは言った。

「橋本にも油断があったと言った。レスラーは常に相手の出方によって、もしかしたらというのを頭に入れておかないといけない。殺し合いじゃないが、何かの時に相手を極めないといけない時がある。そういうものを懐にもっておかないといけない。練習から準備不足だったと言った」

橋本は黙って聞いていたという。3回目に会った時、復帰を打診した。

「このままじゃしょうがない。リングに上がらないと汚名は晴らせないと言った。だったら、早く復帰した方が傷口も浅くすむ。それが延びれば延びるほど周りの見方は厳しくなる」

藤波の説得に橋本は応じた。ただ、要求もしたという。

「他の選手と会いたくないから、控室を一人にして欲しいと言われた。ああいう試合をして周りの選手に顔向けできないという気持ちだったんだろう。だから、言われた通りに専用の控室も作った」

6月8日、日本武道館での天龍源一郎戦で5か月ぶりにリングに立った。試合は負けたがシリーズにも戻った。しかし、10月11日、東京ドームでの小川との再戦に橋本は敗れた。この試合には藤波がレフェリーを買って出た。そして、2000年4月7日、東京ドーム。小川との一騎打ちを前に橋本が「負ければ引退」を口にした。これは、それほどの覚悟で挑むという意味の常とう句だったが、中継するテレビ朝日が飛びついた。

ゴールデンタイムで「橋本真也34歳小川直也に負けたら即引退スペシャル」と題し中継したのだ。そして、橋本は敗れた。視聴率は15パーセントを超え、翌日のスポーツ紙は1面で報じた。番組のタイトルは言わばテレビ局の企画。社長だった藤波は引退させるつもりはなかった。しかし、この反響の大きさが足かせとなり、橋本と新日本は八方塞がりの状況に陥った。そして、またも破壊王はリングから遠ざかった。

「社長として興行の態勢を固めないといけなかった。大きな興行があるわけだから橋本の気持ちは別にしてリングに引っ張り出さないといけなかった」

藤波は社長として復帰へ体を張る覚悟を固めた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(38)橋本真也さんを解雇した真相
2017年3月23日15時0分 スポーツ報知
2000年10月9日、東京ドームで橋本さん(右)の復帰戦の相手を務めた藤波

2000年10月9日、東京ドーム。第1試合で46歳の藤波辰爾は、橋本真也と対戦した。結果は橋本の完勝だった。だが、当時、社長の藤波にとって橋本をリングに上げたことが勝利だった。

「この時は、橋本をリングに上げただけで良しと思った」

半年前の4月7日、「負けたら引退」と銘打たれた小川直也との試合で敗れた橋本。復帰までの道のりは、再び険しかった。懸命の説得と「復帰する時はオレが相手をする」と社長自ら体を張って復帰の舞台を整える覚悟を固めた。

「社長としての業務が忙しくて自分自身、違う意味でストレスがたまっている時だった。体はむくんでいるし最悪の体調だった」

99年6月の社長就任からフロント業務を優先するため試合数は激減した。満足な練習もできない状態だったが、橋本を生かすためにリングに上がった。試合は、破壊王が得意のキックを容赦なく入れてきた。最悪の体調のなか厳しい攻めを体全体で受け止めた。

「彼もリングに上がったら、これまでも汚名を晴らしたいという気持ちで来ているわけだから、あの攻めは覚悟していた」

復帰した橋本だったが「誰ともタッグを組みたくない。交わらない」と伝えてきたという。

「橋本は、一人で行動する決意で選手の輪の中に入ってこなかった。新日本の伝統としてリング上のハプニングを興行に生かしていく歴史がある。だったら、橋本もそういう猪木さん的な発想でこれをプラスに変えようと思った。かつての維新軍団のように別動隊となって新日本と対決させようと考えた」

この考えは、椎間板ヘルニアで長期欠場中に描いていた構想だった。選手も社員も膨れあがった新日本を維持するために、大相撲の部屋制度のように有力選手が自分の部屋を持ち独自に興行を展開し採算をアップ。さらに新日本のリングでは、それぞれの部屋同士が対抗戦を行い、さらに活性化させるという発想だった。実際、藤波は復帰後に「ドラゴンボンバーズ」というグループを結成し自主興行を模索した。この時は、活動はできなかったが、後に95年から「無我」を興し、独自に興行を行った。

「橋本の思いをくみながら、自分としても以前から考えていた部屋別制度を進められると考えた」

橋本の「一人で行動する」という思いは、藤波の理想を実現する第一歩になる可能性を秘めていた。そして、橋本は「新日本プロレスZERO」という団体内組織の設立を発表した。道場も都内に用意した。ところが、それからしばらくして橋本は独自に会社登記した。この行動を受け11月13日に新日本は、橋本を解雇した。

「自分たちで独立して興行すると言ってきた。橋本は新日本を切り離して自分の夢に気持ちを切り替えた。あの時はノアも全日本もあった。トップに立って、新しい団体で独自に動いてそっちと戦いたいという思いが膨らんだのだと思う。“今更、新日本”と思ったのでしょう。会社の方針と違う行動に出たわけだから解雇せざるを得なかった」

解雇した橋本。しかし、新日本は、年が明けた2001年1月4日、東京ドームで破壊王をリングに上げた。 (敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(39)ドラゴンストップ 2001年1月4日、東京ドーム
2017年3月24日18時35分 スポーツ報知
01年1月4日、橋本真也(右から2人目)と長州力の遺恨試合が両者レフェリーストップに終わる

2001年1月4日、東京ドーム。47歳の藤波辰爾は、新日本プロレスの社長として解雇したばかりの橋本真也の参戦を認めた。

わずか1か月半前にクビにした選手をリングに上げる異常事態。背景には、当時の新日本が抱える事情があった。選手、社員を合わせると100人近い人数。プロレス団体としてはかつてない規模の会社に成長した。それだけに大きな利益を上げる必要があった。6万人規模の観客を集め、グッズ収益が見込めるドームでの興行は必要不可欠となっていた。当時は、多い年にはドームで1年に3大会も開催。そのためには、観客動員力があるカードがなくてはならなかった。

「新日本は年間の大きい大会の日程が組まれている。ドームもあのころは年に2、3回やっていたと思う。それを成功させるためには、あの時は橋本をリングに上げる必要性があった」

対戦相手は長州力だった。橋本が解雇になった経緯の中で長州との確執があったと伝えられていた。言わばリング外で生まれた根深い因縁。アントニオ猪木からこうしたリング外のトラブルをリング上の戦いに反映させることは、新日本の伝統でもあった。マッチメイカーだった長州は、自ら体を張ってこの戦いを組んだ。

「長州も現場を仕切っているからオレが相手しないといけないという気持ちだった。橋本が復帰した時に自分が彼を引っ張り上げた時と同じ気持ちだったと思う。他の選手じゃ相手できないだろうと考えたのだと思う」

試合に付けられた副題は「因縁凄惨」。橋本と長州の遺恨対決にファンは期待し、ドームは超満員札止めとなった。社長として橋本の参戦を許したのは正解だった。しかし、試合はかみ合わなかった。橋本は一方的に蹴りを入れ、長州がパンチで抵抗する攻防が続いた。藤波は、放送席で試合を解説していた。溶け合わない2人の攻防に業を煮やしたのか、レフェリーのタイガー服部が藤波に手を振った。

次の瞬間、藤波は立ち上がって両腕をクロスさせ「×」を作った。それでも殴り合いをやめない両者。ついに藤波はリングに上がり再び「×」を作り、試合を止めた。結果は無効試合。決着が付かない展開に凄まじいブーイングが藤波に浴びせられた。

「止めたのは、試合が自分の目から見て見苦しかった。お互いがエキサイトしているところで水を差したくはなかったけど、長州と橋本のそれぞれの立場と存在感を分かっているだけに見てられなかった。スッキリといい攻防じゃない。このままずるずる延ばしたらせっかくの看板の選手がつぶれてしまうと思った。試合の結果は見たくなかった。だから、自分だけが悪役になってもいいと思って止めたお客さんからすれば白黒ついてないわけだから不満だったと思う。でも、白黒付いていたらもっとお客さんにとっては後味が悪かったと思う」。

後に「ドラゴンストップ」と呼ばれた試合停止。社長ではなくリングで戦うプロレスラーとしての判断だった。今、あのストップをどう思うのか。

「今もあの判断は間違っていなかったと思う。あの裏に何かあったのかと勘ぐる人もいるけど、あれは自分自身の気持ちだけ。完全な独断だった。自分のアドリブだった。お互いをつぶしたくないという気持ちだけだった」

闘魂三銃士の中でも濃密な時間を過ごした橋本。この試合を最後に連絡を取り合うことはなくなったという。橋本は、この年の3月2日に両国国技館で自身の団体「ZERO―ONE」を旗揚げ。ノア、全日本などと対抗戦を行った。ただ、運営は厳しかった。2004年11月に活動を停止。そして、05年7月11日、脳幹出血で急死した。40歳のあまりにも早すぎる死だった。

「亡くなったことを聞いた時はショックだった。レスラーは誰しもトップに立って旗を振る野望がある。ただ、それと同じぐらいひとつの団体を持つことはリング上とは別のストレスがたまる。橋本もそれが重なっていたのかもかもしれない。団体を引っ張って行く難しさを感じたかもしれない。ただ、本来はもっと活躍できた選手。プロレス界全体に影響を与えられた存在だった」(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(40)ジャイアント馬場さんからの言葉
2017年3月25日15時0分 スポーツ報知
16文キックを放つジャイアント馬場さん

闘魂三銃士との対決に入った1990年代。一方で藤波辰爾は、かつては交わることがなかった全日本プロレスでトップを取った選手との対決も実現した。

最大の相手は、天龍源一郎だった。天龍は90年5月に全日本を退団。メガネスーパーが作った新団体「SWS」へ移籍した。SWSは、豊富な資金力をバックに全日本、新日本から複数の選手を引き抜いたが、わずか2年1か月で活動停止となった。天龍は92年7月に「WAR」を旗揚げし、新日本との対抗戦へ打って出ていた。

初の一騎打ちは、93年9月26日、大阪城ホール。次に同じ年の12月15日の両国国技館で対戦し、最後は96年4月29日、東京ドームだった。3度目の対戦は、ドラゴンロケット3連発を繰り出したが、最後に飛んだ時に鼻骨を骨折。おびただしい鼻血を流しながらの試合となった。

全日本と新日本が互いにゴールデンタイムで放送していた70~80年代半ばまでなら考えられなかった対戦。ジャンボ鶴田との戦いが実現しなかっただけに藤波にとってどんな思いがあったのだろうか。

「そんな感慨はなかった。WARが新日本に来たから、その中の試合という感覚だった。天龍は、全日本で育ってきているからタイプが違う部分でちょっと違和感はあった」

2000年に入ると三沢光晴とのつながりが生まれる。三沢も天龍と同じように全日本を退団し2000年6月に「ノア」を設立。新日本との交流戦にも幅を広げ、2005年5月14日に新日本の東京ドームに参戦。この時、藤波と組んで蝶野正洋、獣神サンダー・ライガー組と対戦した。藤波のグランドコブラでライガーに勝ち。初対決は07年9月9日、ノアの日本武道館。西村修と組んで三沢、潮崎豪組と戦った。09年6月13日、試合中のリング禍で急死。46歳の若さだった。武道館でのタッグが最初で最後の対戦となった。

「三沢は、試合前には“どんな動きをするのかな”“つかみどころがないのか”と思ったけど、彼なりのうまさがあった。キャリアは自分が上だけど自分の中で彼への意識が変わった」

全日本プロレスの総帥、ジャイアント馬場と面会したこともあった。椎間板ヘルニアで長期欠場中の1990年5月14日。全日本の東京体育館を観戦に行ったのだ。天龍らが離脱しSWSへ移籍した直後の試合だった。タイガーマスクだった三沢がマスクを脱ぐなど波乱の大会となった。

「休んでいて、自分の中でむしゃくしゃしている部分があった。一回、違う団体を見に行こうと思った。自分の意志で東京体育館へ行った。行けば藤波が離脱かとか書かれるかもしれないとか頭をよぎったけど、見に行くことで自分の気持ちがどうなるかを見たかった」

事前に馬場夫人の元子へ連絡をしたが色よい返事はもらえなかった。

「元子さんに連絡してお願いしたんだけど、あちらも変なものに巻き込まれたくないという感じでいい返事じゃなかった。だけど、こちらは“馬場さんにあいさつするだけですから”と言って見に行くことを認めてもらった」

馬場の控室を訪ねた。

「馬場さんにあいさつしたら、誘いという感じじゃないんだけど“なんかあったら来いよ”と言われた。こっちは“ありがとうございます”とだけ言った。あの気遣いはうれしかった」

馬場は99年1月31日、肝不全のため61歳で亡くなった。会ったのは、この東京体育館が最後だったという。日本プロレス時代から馬場を見ていた藤波にとって、どんな存在だったのだろうか。

「馬場さんは、世間の人が目指すプロレス界の目印なんです。プロレスの象徴。それが馬場さんだった」(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(41)社長時代の苦悩…「最も苦痛だった5年間」
2017年3月26日15時0分 スポーツ報知
社長時代の藤波辰爾

藤波辰爾は、1999年6月24日、新日本プロレスの社長に就任した。45歳の時だった。それまで89年から10年間に渡り、ドーム興行を定着させ業績を残してきた坂口征二に代わってのトップ就任だった。決定を下したのは、最大の株主でオーナーだったアントニオ猪木だった。

「株主総会の前に突然、猪木さんの側近から“次はお前が社長になるんだ”って話が来た。それまで坂口さんが社長をやられていて、功績を残してきたのに、その坂口さんをさしおいて自分がやるというのは、どこかスッキリしなかった。坂口さんにも相談した。そのうち“お前が受けなかったら外部から別の人を呼ぶ”という考えが伝わってきた。トップが外部の人間になれば、旗揚げからずっとやってきた新日本が別のモノになってしまうという危機感があった。自分が受ければ、これまでの新日本の形は保てると思った。それでやるしかないと決意した」

社長に就任したが、激震の連続だった。2000年に橋本真也を解雇。2002年には武藤敬司、長州力が退団した。同じ年に佐々木健介も離れていくなど、有力選手が立て続けに辞めていった。リング外では、立ち技格闘技の「K―1」に続き、総合格闘技の「PRIDE」が急速な勢いで台頭。強さを看板にしてきた新日本プロレスは、もろに影響を受けた。プロレスが失ったテレビのゴールデンタイムで中継され格闘技の人気は、さらに高まっていった。その反動で新日本への熱は、冷えていった。その責任を、トップである藤波が追及されることもあった。

「新日本プロレスの旗揚げから、ずっとやってきて社長になってからの5年間が一番、苦痛だった」

猪木との関係も難しくなった。89年に参院議員となったが、二選目を目指した95年に落選し、存在感を示す場所はプロレスの舞台しかなくなっていた。97年にプロレス転向した小川直也を使って新団体「UFO」を設立、PRIDEのプロデューサーに就任するなど新日本と距離を置く行動を連発。しかし、一方で新日本に対してはオーナーの力をフルに発揮し東京ドームなどのビッグマッチでのマッチメイクにも介入してきた。会社が決めたことも猪木の一存で何度も覆された。猪木と会社の狭間に藤波は常に立たされる日々だった。

「猪木さんも裏でいろんな試行錯誤があったと思う。こちらは、年間の試合の計画、予算を考えていたが、猪木さんはUFOを作って格闘技路線とかK1と絡むとかいろいろやってきた。それを無視することもできたんだけど、やはり、オーナーだから無視できない。あの頃、猪木さんは、新日本が“右”と決めたことは、必ず“左”と正反対のことを言ってきた」

それでも藤波は、猪木の意向を理解しようと努めていた。

「猪木さんの気持ちも分かった。あのころは、新日本になにか魂が消えてきていた。リングの上で感情が爆発して破裂したら一瞬で何かが起きるという緊張感が新日本だった。殺し合いじゃないけど、感情が常になければいけなかった。それを言わんがために猪木さんは行動で示すしかなかった。だから、小川を連れてきて格闘技路線を訴えたのだと思う。当時は変な意味でリングの中で近代化され、戦いの「た」の字がなくなっていた」

社長としてやりたいことが大きく2つあった。ひとつは、椎間板ヘルニアでの長期欠場中に構想を温めていた「部屋別制度」の実行。もうひとつが株式上場だった。部屋別制度は、無我を立ち上げ自主興行を行い、具体的に動いたが「藤波さんだからできるんですよ」と社内の反応は芳しくなかった。上場も「もう少しのところまで動いていた」が、結果として実現はしなかった。

一方で選手として試合数も激減した。2004年は試合出場はなく「引退」を報じられることもあった。実際、「エピローグ・オブ・ドラゴン」と題して、引退ロードを敷く試合を重ねてもいた。苦難ばかりの5年間。2004年5月23日、株主総会で社長を退任し副会長となった。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(42)新日本プロレス退団…2006年6月
2017年3月27日15時0分 スポーツ報知
2006年6月に新日本を退団した藤波辰爾

藤波辰爾は、2006年6月30日、新日本プロレスを退団した。1972年3月6日の旗揚げ戦から34年。新日本の看板を守り続けてきた。52歳。辞表を提出しての退団だった。

「断腸の思いだった。このころは今後、新日本がどうなるかっていう時期だった。選手がバラバラになって興行的にも苦しい時期だった。ずっと新日本が沈む時は自分も一緒に沈む覚悟でやってきた。ただ、周りで自分の考えとは違う動きが出てきた。プロである以上、仕方のないことかもしれないけどかなりの人数の選手が契約で切られた。社長も代わり、自分の肩書は副会長だったけど、中にいてモヤモヤが大きかった」

格闘技人気に押され、新日本の業績は悪化の一途をたどっていた。長年、支えてきたベテランレスラーは契約を打ち切られ、社長も藤波が退任後は、外部から経営コンサルタントだった人物を据えたが長くは続かず当時はアントニオ猪木の娘婿のサイモン・ケリー猪木氏がトップに就いていた。悩んでいる時に追い打ちをかける別れがあった。

「そのはざまの中でメキシコから自分を頼って日本に来たブラック・キャットが亡くなった。彼は、自分がメキシコにひんぱんに行っていた時に日本にきたいと言って連れてきた選手だった。仲人もしたしね…。そんな大切な選手が亡くなってしまったことは、自分の中ですごく大きな出来事だった。何か心の中で糸がぷっつり切れた感じがした」

06年1月28日、急性心不全でブラック・キャットは急逝した。51歳の若さだった。数多くの選手から愛されていたブラック・キャット。自らを慕ってくれた仲間の死は藤波の心を大きく傷つけた。最後に辞表を提出する決断に至ったのは家族の言葉だった。

「あのころは、会社から帰ってくると家内も息子も自分の顔色をうかがっていた。ある時、女房が“もういいんじゃないの”って言った。これまでの生活が新日本で成り立っていたし、我慢してきたことも女房が一番、わかってくれていた。そんな彼女の言葉で、肩の荷が下りたというか、楽になった」

表面的にも退団を決断する大きな動きがあった。2005年11月に新日本の最大の株主だった猪木がゲームソフト開発会社へ自身の持ち株を売却してしまったのだ。これにより新日本の運営は、実質的にこの会社が担うことになった。株の売却は猪木の独断だったという。

「恥ずかしくて言えることじゃないんだけど、本来は株主総会があって役員の承認を通して決めることなんだけど、新日本は結局、オーナー一存だった。猪木さんが株を売ってしまったことで、我々とは違う第三者が会社を運営することになった。そうなると、自分がこれまで考えてきた新日本プロレスという形は保てなくなると考えた」

オーナーの交代が退団を決意した背景にはあった。退団後は結果的には和解したが、08年6月には退職金の支払いを求め新日本を相手取り訴訟を起こす事態も起きた。

旗揚げから一筋に支えた新日本を離れ、自身が設立していた「無我」に合流。06年7月には団体名を「無我ワールド・プロレスリング」に改称。08年からは団体名を「ドラディション」に変えた。

12年4月20日には40周年記念大会を後楽園ホールで開催した。長州、初代タイガーマスクとトリオを結成し蝶野正洋、ヒロ斎藤、AKIRA組と対戦。会場には猪木、前田日明、藤原喜明らが来場し試合後には全員そろってリング上で記念撮影を行った。藤波だからこそ実現した奇跡の1枚だった。

この大会で長男の怜於南がプロレス入りを直訴。リングネームを「LEONA」とし13年11月19日に船木誠勝戦でデビューを果たした。この年に還暦を迎えた。そして、2015年。これまでの功績が評価される知らせが届いた。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(43)WWE殿堂入り 猪木に続く日本人2人目の栄誉
2017年3月28日15時0分 スポーツ報知
チャボ・ゲレロと戦う藤波。2015年にWWE殿堂入りを果たした

2015年3月28日。61歳の藤波辰爾は、世界最大のプロレス団体「WWE」の殿堂入りを果たした。93年の創設後、日本人での殿堂入りは2010年のアントニオ猪木に続く2人目の栄誉だった。WWEの前身はWWF。70年代から80年代半ばまで新日本プロレスと提携していた世界最大の団体は、ジュニア時代から本拠地のニューヨークで残した藤波の功績を忘れてはいなかった。

殿堂入りの表彰式は、米カリフォルニア州サンノゼで行われた。式場でリック・フレアーから「IWGPとNWAの両王座に就いた日本で最高のレスラー」と紹介され登壇。「私はデビューして43年。61歳になりますが、まだまだ現役で試合をしています。それは、私にとって使命だからです。殿堂に入ることができましたが、これからも挑戦と冒険を続けていきたい」と英語でスピーチした。

サンノゼでは嬉しい再会があった。

「ベイダーが来てくれた。自宅のあるコロラドからサンノゼまで、自分に“おめでとう”って言うためだけに来てくれた。終わった後も部屋に訪ねてきてくれた」

87年12月、あの両国国技館の屈辱で始まったビッグバン・ベイダーとの出会いから28年。その後、UWFインター、全日本、ノアと団体を移っても常にトップを張り続けたベイダーにとって藤波の存在は特別だったようだ。

「あの両国で屈辱から始まったベイダー。最初は、猪木さんの好敵手として始まったけど、一番戦ってきたのは自分だった。殿堂入りの表彰式に来てくれた時も盛んに自分への敬意を払う言葉を繰り返してくれた。日本で活躍できた彼自身のプロレス人生の中で自分への思いをずっと持っていてくれていた」

かつてハルク・ホーガンが猪木と対戦しタッグを組んでプロレスを学んでいったようにベイダーにとって藤波との試合が自身のキャリアを作る上での財産となっていたのだ。忘れられない試合は、1988年6月26日、名古屋レインボーホールでのIWGP戦だという。

「あの時のベイダーは、脂が乗っていた。アメフトから来てちょうどプロレスの面白さを知ったころで一番、馬力がすごくて勢いがあった」

試合は、逆さ押さえ込みで王者の藤波が勝利。新日本に参戦後、ベイダーにとって初のフォール負けだった。

「自分が勝って、ファンが興奮してフェンスを乗り越えてリングに上がってきた。セコンドも抑えないといけないんだけど、抑えがきかなかった。逆に自分はお客さんを手招きして上がってこいって言った。異常な光景だった。あれは忘れられない」

その後もIWGP戦を中心に2人は名勝負を刻んできた。そして、今年。4月に開催する45周年記念ツアーにベイダーの参加が決まった。4月20日、後楽園ホールで藤波は、長州力、越中詩郎と組んでベイダー、武藤敬司、AKIRAと対戦。2人の対戦は、2011年4月以来、6年ぶりとなる。4月22日の博多スターレーンでも藤波は、越中、金本浩二と組んでベイダー、藤原喜明、佐野巧真と対戦。そして、4月23日のエディアオンアリーナ大阪第二競技場では、ベイダーとタッグを結成する。藤波、ベイダーに長州を交え、藤原、越中、佐野組と対戦する。

心配なのはベイダーの体調だ。昨年末に自身のツイッターに「心臓病で医師に余命2年と宣告された」と明かした。その後、交通事故にも遭うなど状態が気になる。

「最近も電話したんだけど、練習も始めているし心配ないということだった。声もすごく元気だし“自分の体だから自分が一番、分かっている。リハビリもやっているし、医師も問題ないと言ってくれている”と言っていた。“4月は、100パーセント行く自信があるから、対戦を楽しみにしている”と言っていた。ベイダーとの対戦、タッグは、自分も楽しみだね」(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(44)ついに腰を手術…61歳、歩けない恐怖との戦い
2017年3月29日15時0分 スポーツ報知
2年前に腰を手術した藤波辰爾

殿堂入りした2015年。61歳の藤波辰爾は、大きな決断をした。30年近く悩まされてきた腰にメスを入れたのだ。

「ある時、朝起きようと思ったら起きあがれなかった。足が動かない。すぐに病院へ行ったら“手術しないといけない。悠長なこと言ってられませんよ”と言われた」

診断は「腰部脊柱管狭窄症(ようぶ・せきちゅうかん・きょうさくしょう)」だった。背骨に囲まれた管状の空間となる「脊柱管」が狭くなり神経を圧迫する病気。椎間板ヘルニアが判明したのが1989年。そこから26年間も手術することなく放っておいたことが病を引き起こした。一貫してメスを入れることを拒否してきた藤波だったがこの時、初めて手術を決断した。メスを入れたのは9月3日だった。10月に殿堂入りを記念したシリーズを東京、大阪、博多で予定していたが、すべて欠場した。自らが主役のシリーズで欠場を余儀なくされたことは、いかに病が逼迫(ひっぱく)していたかを物語る。

「手術する前に麻酔をしてMRIを撮ったんだけど、骨が神経まで完全に飛び出ていた。それでも手術するのは本当に勇気がいった。歩けなくなってしまうのではという恐怖もあった。車いすで生活するようになるかもという思いもあった。医師からは“藤波さん、現役でやるの?”聞かれた。“できたら、やりたい”と答えた。恐怖はあったけど、メスを入れるのは、リングに上がり続けるためだった」

リングにかける執念で決めた4時間あまりの手術は成功した。

「手術が終わって“立ってください”と言われて、立てた時は本当にうれしかった」

ただ、完全には治っていないことも事実だった。

「今も右足はしびれがあるし、まっすぐに座り続けることはできない。少し体を横に向けないとイスにずっと座っていられない。ただ、右足の影響でバランスを取りながら歩くようにしているけど、体がそれに身に付いてくる。試合の動きも何とかカバーしようとやっているうちに身に付いてきた」

手術からわずか58日後の10月31日にリング復帰を果たす。以後、自らの団体「ドラディション」を中心に定期的にリングに上がり続けている。

「腰のケガがなかったら今もドラゴンロケットをやっている。飛び蹴りもやっていたでしょう。この前、一緒に試合をした時に武藤(敬司)があれだけひざが悪いのにムーンサルトをやった。レスラーっていうのはリングに上がれば、本能でやってしまってそれができるものなんですよ。あの時、ムーンサルトをやった武藤の気持ちはすごくよく分かる。自分もケガが腰じゃなくて手か足だったらスープレックスだってやっていた。6メートル40センチ四方のリングっていうのは、不思議な空間。ハンデを背負っていてもお客さんには悟られずに動ける何かができる。これは天性で本能なんですよ」

この衰えぬ本能こそがプロレスラー藤波を今も支えている。(敬称略)
藤波辰爾45周年ヒストリー

【藤波辰爾45周年ヒストリー】(最終回)藤波辰爾の真実
2017年3月30日15時0分 スポーツ報知
4月20日、後楽園ホールで45周年記念ツアーを行う藤波辰爾

63歳になった藤波辰爾。レスラー生活45年を経た今の本音を明かした。

「プロレスは自分にとって人生そのもの。これで今、生かされている。プロレスが自分の中から消えたら、多分、生きていけないとも思う。生涯現役っていうのは夢。夢だけどそうはならないと思う。でもプロレスが自分の体の中に一本入っていないと持たない。第2の人生って自分の中ではないんだろうと思う」

体も小さく性格もおとなしかった少年時代。テレビで見たプロレスで人生は、開いた。アントニオ猪木に憧れ、16歳で日本プロレスに入門。以来、63歳の今までレスラーとしての歩みを止めたことはない。

「プロレスが生活と一緒にくっついていないと活力源にならない。続けているのは自分のわがままだと思う。周りは、特に家族にはそれに付き合ってもらっている。どこかで終止符を打つんだとうけど、それを自分に対して言うべきことができる人はいないでしょう」

周りが何と言おうと精根尽き果てるまでリングに上がる決意だ。そして、ひとつの夢がある。

「何かの形で自分たちが歩んできたプロレスを残したい。長くやらせてもらって、ファンに活躍できる場を与えてもらった。レスラー、ファンに何かの形を残したい。それは、殿堂なのか何かは分からないけど、何らかのメモリアルを作りたい。力道山、猪木さん、馬場さん。夢を追ってきたファンもいただろうし、そこで我々が語り合える場にもなる。そのためにやっている。そして、殿堂があれば、それを糧にしてさらにやれると思う」

エネルギーの源は「プロレスが好き」。ただ、それだけだと言う。あのブラウン管に映ったレスラーに憧れた少年の気持ちを今も持ち続けている。猪木との関係が、そのことを物語る。

「今、45周年を迎えたけど、結果的には16歳で猪木さんに憧れて入ったあの少年の時と気持ちは同じなんですよ。猪木さんから今も1か月1回ぐらい電話かかってきて“おい飯食うぞ”って呼ばれるんです。そうすると、16歳の少年になってしまう。あの時と気持ちは一緒になってしまう。今も猪木さんと食事しても、16歳の時と同じようにしゃべれないんですよ。おかしいですよね。60歳を超えた人間がいまだに70歳を超えた男とそんな関係になっているっていうのが。女房が面白いらしいんですよ。70と60の人間がいまだに昔のままの空気感になるってね。猪木さんとは46年、親や女房より長くいるんですから」

憧れから入った猪木。しかし、途中で選手としても経営者としても翻弄されたことは事実。恨んだことも数知れずあっただろう。実際、数多くのレスラーが猪木の下を離れていった。様々な波を越えて今も猪木への思いが変わらないのは藤波だけだろう。

「半分バカですよね。女房からも言われたこともありますよ。でも、今は何かあったら猪木さんのところに行くっていうのは反対にうらやましいって言ってます。猪木さんが元気だと自分の活力になるし、生きていく上での源なんです」

力道山には相撲があった。ジャイアント馬場には野球があった。猪木には政治があった。ジャンボ鶴田、長州力にはアマレスがあった。天龍源一郎には相撲があった。しかし、中学を卒業してからプロレス一本で63歳まで走ってきたトップレスラーは藤波辰爾の他にはいない。純度100パーセントのプロレスラー。それが藤波辰爾の真実だった。(終わり=敬称略=この連載は、コンテンツ編集部・福留 崇広が担当しました)</p>
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